~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「建武政権⑭:1336年5月」です。

九州から攻め上ってきた足利尊氏と、後醍醐天皇の命で出陣することになった新田義貞、楠木正成が湊川(兵庫県)で戦います。

楠木正成は奮闘するも、兵力差を埋めることができず、自害しました。

建武3年(1336年)5月年表

5/13新田義貞、兵庫(兵庫県神戸市兵庫区)に到着
5/16楠木正成、京都から兵庫へ下向
5/18海路で東上した足利尊氏、室津(兵庫県たつの市)に停泊
陸路で東上した足利直義、加古川(兵庫県加古川市)に到着


※直義接近の報を受けた新田義貞は赤松円心のいる白幡城(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)の包囲を解いて兵庫に退却。
5/24北畠顕家、相馬氏を破り奥州帰還

※相馬氏の拠城である陸奥国小高城を落とし、その翌日に多賀国府を回復。
※顕家の留守中、多くの武将が足利方に寝返っており、中でも相馬は顕家を苦しめていた。
5/24楠木正成、新田義貞と合流
5/25摂津湊川(兵庫県神戸市中央区・兵庫区)の戦い

※兵力で劣りながらも後醍醐天皇の命令で新田義貞、楠木正成が出陣。足利尊氏を迎え撃つ。
※足利軍は正面から直義軍、山の手から斯波高経を大将とした中国地方の軍勢、海沿いから少弐頼尚を大将とした九州勢の3手に分かれて攻撃。これに細川定禅率いる四国勢、足利尊氏の船団が海路から攻める。
※新田義貞は敗戦濃厚となった時点で戦線離脱。尊氏軍に追われながらもなんとか京都へ帰還。(戦いの場は奇しくも一の谷の合戦と同じ場所であった)
※楠木正成は正面の足利直義の軍勢に突入。一時は直義を退却させるが、徐々に包囲され最終的に民家に逃げ込み弟の正季とともに自害。
※後醍醐天皇は新田義貞らとともに比叡山に入る。
5/27後醍醐天皇、三種の神器を持って比叡山へ避難

※皮肉にも正成の提案を実行。
※足利勢は入京。
足利直義
兄さん、いよいよだね。
足利尊氏
僕は海から向かうから、直義は陸から行ってね。

途中でまた兵を増やしておくから。

 
赤松円心
寝返ると見せかけるなどして、なんとか新田軍を九州に行けないように足止めしておきました!
新田義貞
尊氏どのにはこれまで何度も苦杯をなめさせられてきた。

天皇方の総大将としてこれは恥ずべきこと。

願わくは一騎打ちで戦いたい、、

楠木正成
(だから総大将としては不適格なんだ、と言いたいところだけど)

いえいえ、鎌倉幕府を倒したのは貴方のおかげではないですか。

何を恥ずべきことがありましょうや。

足利尊氏
よし、そろそろかな。

ほら、みんな行くよー!

新田義貞
いかん、京都へ退却だーー
楠木正成
う、、、

それでは相手から挟まれてしまうではないか、、

しょうがない、正面突破じゃ!

前にいる直義の首をとる!

足利直義
あわわ、正成が突進してくる!!

兵力はこっちの方が多いのに防ぎきれない!!

兄さん、どうする??

足利尊氏
はははー。正面から戦っちゃだめだよー。

相手の矢を使わせつつ、徐々に包囲網を狭めてくから、

ちょっと引いてなよー。

楠木正成
さすが、尊氏どの。

敵ながらお見事じゃ。

足利尊氏
僕も正成くんのことは尊敬してるよ^^

首は丁重に扱うからねー。

楠木正成
私も建武政権で尊氏さまの執事でおられる高師直さんと一緒に武者所として働いていましたから、尊氏さまの人柄は良く聞いておりました、、
後醍醐天皇
うぬぬ、正成の言った通りになってしまった、、

しょうがない、比叡山に退却する!

義貞にも言っとけ!

新田義貞
多勢に無勢、無理ゲーでした、、