~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「建武政権⑪:1336年2月」です。

畿内では豊島河原の戦いで天皇方が勝利し、尊氏は軍議を開いて九州に赴くことを決めます。

尊氏は、その際、光厳上皇の院宣を手に入れました。

一方、信濃では「大夫四郎」が蜂起します。

北条残党をまとめあげるだけの力を持つ「大夫四郎」は一時は執権候補にもなった、北条高時の弟である、北条泰家ではないかとされております。

大夫四郎は鎌倉を目指します。

建武3年(1336年)2月年表

2/11豊島河原(てしまがわら)の戦い

※足利尊氏は再度京都への侵入を試みる。豊島河原(大阪府箕面市・池田市)で北畠顕家、新田義貞軍と対決。尊氏には周防・長門の軍勢が味方に馳せ参じたが、顕家・義貞軍が勝利。
※楠木正成は西宮(兵庫県西宮市)から進軍して尊氏軍の背後から攻め込んでいた。
※尊氏は九州へ向かう。
2/12足利尊氏、播磨室津(兵庫県たつの市)で軍議を行う

※赤松円心の進言を聞き入れて、九州逃亡を決定。
※一方で山陽・四国の防備を固めるべく、足利一族や現地の豪族出身守護を指揮官として配置。
※同時期、尊氏は「元弘没収地返付令」を発し、尊氏の味方となれば建武政権に没収された土地を返還すると宣言。これにより去就を明確にしていなかった多くの武士たちを仲間とした。
2/14尾張鳴海(名古屋市緑区)で合戦

※足利家側近の吉良貞家、その配下の本間有佐が参戦。
2/14北畠顕家、京都凱旋

※豊島河原で尊氏を破ったあと、さらに掃討戦を行っていた。
※新田義貞は周防国の吉川実経に尊氏の追撃を依頼したが、実経は尊氏方に寝返った。
2/15村上信貞、小笠原貞宗ら信濃麻続御厨(東筑摩郡麻績村)などで北条一族の大夫四郎、丹波右近大夫らと合戦

「大夫四郎」はこれまでの研究により「北条泰家」の可能性が高い
※その後、大夫四郎らは鎌倉へ進出し、翌月の「鎌倉合戦」へ。
※東海地方にいた吉良貞家は義詮を守るために鎌倉へ向かう。(斯波家長が助けを求めた?)大夫四郎は北条残党の力を結集できるほどの人物であった。
2/15尊氏、持明院統の光厳上皇の「院宣」を手に入れる(@鞆:広島県福山市)

※以前から交渉していたと思われる。
※院宣内容は新田義貞の追討。
※これにて足利尊氏は朝敵から解放。同時に持明院統と大覚寺統(後醍醐天皇)の対立も決定的に。
2/20尊氏、赤間関(山口県下関市)に到着
2/25少弐頼尚、尊氏を出迎える

※少弐頼尚は大宰府(福岡県太宰府市)に本拠を置く武将。
2/29尊氏、筑前国芦屋(福岡県芦屋町)に上陸

※同日、尊氏与党の少弐貞経(頼尚の父)が後醍醐方の菊池武敏の攻撃を受けて自害。
2/29後醍醐天皇、元号を「延元」に改める

※足利方はこの元号を使用せず。
新田義貞
北畠顕家どのがいれば百人力だーっ!

ついに尊氏さまに勝ったぞー。

足利直義
兄さん、どうすればいいんだよー
足利尊氏
まあ、そう慌てるなって。

僕に策略があるから。

光厳上皇
尊氏、持明院統再興のために戦ってくれるんだな。

それならこの院宣をくれてやろう。

赤松円心
戦には旗が必要でございます。

これで尊氏さまは朝敵を逃れられる。

楠木正成
天皇たちは新田義貞を推すんだけど、義貞どのと尊氏どのを比べた場合、人望も政治力も明らかに尊氏どのの方が上だ、、
足利尊氏
みんな、とりあえず九州に向かうよー。

円心、義貞の足止めを頼むね。

赤松円心
おまかせあれ。

時間稼ぎしますので、その間に逃げてくださいね。

北条泰家
われらは鎌倉を目指すぞ!
小笠原貞宗
そうはさせるかっ、って、

さすが泰家どのは強いな、、

尊氏さま、すいません。

足利尊氏
ふーん、それより時行くんはなかなか見つからないねー。
北条泰家
はっはっはー。

あいつはそう簡単には見つからないぞー。

北条時行
泰家おじさん、ご武運をっ!