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☞【建武政権⑫:1336年3月】『多々良浜の戦いと鎌倉合戦!』

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「建武政権⑫:1336年3月」です。

九州に向かった尊氏を少弐頼尚が出迎えました。

そして、後醍醐天皇方の菊池武敏と多々良浜で戦います。

一方、鎌倉では信濃で決起した大夫四郎(おそらく北条泰家)が侵入し、

足利義詮の後見人である斯波家長、東海より駆け付けた吉良貞家が応戦します。

建武3年(1336年)3月年表

3/1尊氏、宗像大宮司の館へ入る

※菊池武敏が博多(福岡県博多市)進出した報を受け、香椎宮(福岡市東区)へ移動。
※高、大友、宇都宮、千葉、島津が先陣として多々良川(福岡市東区)へ向かい、少弐頼尚が別働隊として布陣した。
3/2多々良浜の戦い

※足利軍2000騎あまりに対して、菊池軍は4-6万であった。
※尊氏は切腹すると言いだし、直義が止める。
※実際は菊池軍の多くは日和見、あるいはむしろ足利方であった。
※足利兄弟の奮戦に加え、地の利に詳しい少弐、大友、島津の奮戦、さらには松浦党などの寝返りにより、尊氏が優勢となり勝利。
※九州の武士とは護良親王が令旨を出していた頃から関係があった可能性。
3/24北畠顕家、奥州へ向かう

※足利方との戦いのため
3/25鎌倉合戦(~/27)

※鎌倉は、足利義詮の補佐役として一門の斯波家長が治めていた。(しかし、12月の北畠顕家の京都行きは止めることができなかった。)
※2月に信濃で決起した「大夫四郎」(北条泰家説が濃厚)が鎌倉へなだれ込む。
※足利方(斯波家長)の勝利
※北畠顕家が鎌倉を通過するのはその後。
少弐頼尚
私が中先代の乱の応援に行って留守の間に、後醍醐方の菊池武敏が攻めてきました!!
足利尊氏
菊池くんはなかなか骨のある武将だからねー
菊池武敏
少弐頼尚よ、お父さんの、お命をいただく。

これは私の父・武時の仇でもある。

少弐頼尚
わ、わ、親父が1333年に一緒に九州探題を攻めなかった時のことを恨みに思ってるのね、、

あんときは急すぎたじゃないのー

足利直義
それにしても、兄さん、我が軍2000に対して、菊池軍4-6万です、、
足利尊氏
えー、じゃあ切腹しちゃおっかなー、切腹、切腹。
足利直義
兄さん、何を言ってるの!!

2人で戦いましょう!!

足利尊氏
ははは、芝居だよ、芝居。

策略がないわけじゃないんだよ、

ま、いっちょやってやろっか。

菊池武敏
ううう、なんでみな尊氏の味方に!!

しょうがない、退却じゃ!!

少弐頼尚
足利家は、そもそも源頼朝公に最も近い血縁なんだ、、

北条氏との政争を避けて中央の政治には関与しないでいたけど、持っていた土地、家格、ともに北条氏に匹敵するほどだった、、

そのトップが尊氏様。

しかも後醍醐天皇に取り上げられた土地を返してくれるという。

武家の棟梁として相応しいのは尊氏様なんだ、、

足利尊氏
ははは。

ほら、勝ったでしょー。

少弐くんはこのあと、一緒に京都まで来てもらうからね。

一緒に戦おうよ。

それより時行くんは見つかったのかなぁ??

斯波家長
それが、鎌倉は大変なことになっておりまして、、
大夫四郎
(北条泰家)
鎌倉幕府を復活させるぞー

あれだけ養子縁組しておきながら我らを裏切った足利は許せんのじゃー

斯波家長
東海地方の吉良貞家どのに援軍を頼み、何とか追い払いました!
足利尊氏
へー、泰家さんはまだ生きてたんだ、、

時行くんもどっかに隠れているんだろうね、、

北条時行
いまはまだ出る時じゃないな、、
北条泰家
わしもどこかで生き延びてるから、

時行、お前も頑張るんだぞー