~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「建武政権④:1334年7-12月」です。

阿野廉子の讒言により、護良親王が失脚して、鎌倉に護送されます。

建武元年(1334年)7-12月年表

9/23津軽持寄城合戦

※津軽大光寺合戦の延長。11/19、持寄城落城し、安達高景、降伏。陸奥将軍府側の勝利。
10/22護良親王失脚

※武者所(警察機関)の名和長年、結城親光らにより捕縛される。
※皇位簒奪を企てたという罪。
※実際は「足利尊氏襲撃計画」を後醍醐天皇から受けており、尊氏を狙っていたが失敗(6/7)。後醍醐天皇はすばやくその責任を護良親王1人に責任転嫁した。
※しかし、自分の息子を盤石な天皇にしたいと願う側室・阿野廉子と護良親王を排除したい足利尊氏の思惑が一致したことで、後醍醐天皇が護良親王を切り捨てた形となった。
「尊氏より主上が憎い」(護良親王)は有名。
※九州の統治権をめぐって尊氏と護良は争っていた。
11/15護良親王、鎌倉配流

※東光寺(鎌倉市)に護送され、足利直義の監視下に置かれる。
11/北条残党が足利尊氏、新田義貞を名指しで打倒宣言

※本来の家格は雲泥の差があるが、足利尊氏と同列で新田義貞も名前が上がっていることがポイント。
12/13護良親王配下の南部・工藤ら武士数十人が処刑される

※幕府との戦いで活躍した護良親王の戦力が削がれる。
12/28二階堂道蘊(68)、処刑

※二階堂道蘊は鎌倉幕府で要職についていた。
※文筆系の有力御家人として、著名であり、その才能を惜しまれて建武政権でも登用されていた。
※後醍醐天皇の正中の変、元弘の変に対する幕府の強硬論をおさえたことから、後醍醐との浅からざる関係が窺い知れる。
※佐々木道誉とともに、尊氏と後醍醐をつないだのも彼ではないかともされる。(ともに鎌倉に住んでいた。)
※しかし、紀伊での佐々目顕宝僧正、六十谷定尚の反乱で飯盛城が攻め落とされたことなどを受けて処刑された。
名和長年
天皇様、本当に護良親王を捕まえちゃって良いんでしょうか?

倒幕の立役者だと思うんですが、、

阿野廉子
え、何言ってるの?

皇位を簒奪しようとしたのですよ?

足利尊氏
(そんなの嘘に決まってんじゃん(^^)…

護良くんは賢いからねー。

後醍醐天皇
うぬぬ、しょうがない、

いいんだ、護良親王を捕縛せよっ!

護良親王
え、ええ、なんで、、

尊氏は敵対する立場であるからしょうがないとしても、

はしごを外した主上が憎い、、、

後醍醐天皇
尊氏暗殺計画も護良親王の独断ってことでいいかな、

尊氏はこれで政権に参加してくれるだろうか、、

足利尊氏
あはは~、一番頼りになりそうなのを捕まえちゃったよw

バカだねー、後醍醐天皇は。

楠木正成
足利尊氏殿、敵に回してしまうと厄介なことになると違いないと見た、、
北畠顕家
護良親王さまを失脚させてしまうとは、どうなっているんだ、、
足利直義
護良親王は僕が閉じ込めて見張りますね。

そう簡単に出られない石牢ですから大丈夫でしょう。

北畠親房
陸奥将軍府の兵をもってして護良親王を奪い返したいところだが、

ここへ来て鎌倉将軍府が厄介だ、、

それにしても後醍醐天皇は何をやっているんだ、、

北条時行
そこへ疾風怒濤の如く現れるのが僕、というわけです。
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