こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「建武政権①:1333年6月」です。
鎌倉幕府が崩壊し、後醍醐天皇が政治の主導を握ろうとするものの、スタートからつまずいていました。
元弘3年(1333年)6月 年表
6/5 | 後醍醐天皇、二条富小路内裏に還御。 「建武の新政」開始。 ※古代律令国家最盛時代を再現しようとした。土地の領有はすべて「綸旨(りんじ)」によるものだけであり、それ以外は認められないという「個別安堵法」を公布した。 ※足利高氏、「鎮守府将軍」となる。鎌倉殿に匹敵する地位とも言われるが、実体も実益もない地位で、後醍醐天皇は高氏を飾り物にする気であった。さらに、後醍醐天皇(尊治)より一字もらい、尊氏と改名させる。また、5カ国の守護となり、全国30箇所の地頭職も得る。 |
6/13 | 護良親王入京、征夷大将軍就任 ※足利高氏を敵視。尊氏征伐と征夷大将軍就任を要請。 ※しかし、高氏は5月の六波羅陥落時点で京の警察権を握っていた。 |
6/18 | 信濃武士・市河助房、経助兄弟入京 ※足利高氏の軍勢催促による ※このような形で次々に足利高氏を慕うものが入京 ※護良親王との対決に備える |
6/26 | 後伏見上皇、出家。 ※後醍醐天皇の政敵。しかし、後醍醐は政権奪取後、持明院統の領土を真っ先に安堵していた。 |
ようやく私の時代だっ!!
わかっておるから武士のものどもにも褒美をつかわすんじゃ。
でも、褒美は全部わしが決める。
そう、つまり土地は全部わしが与える。
どうなるのーー?
「摂政」・「関白」もナシ!
「国司制度」は復活!
われわれ貴族も大ダメージだぞ、、
天皇、大丈夫かな(笑)
どうやら僕を取り込んで、僕から軍の指揮権を奪おうとしているみたいだけど、
ちょっと自分の実力を勘違いしてると思うんだよね。。。
【恩賞その他】
※楠木正成は摂津・河内を与えられる。身分を考えると破格の出世。
※名和長年は伯耆・因幡を与えられる。ほか京都の商業を管理する役職にも選ばれる。
※千種忠顕は佐渡・丹波・但馬が与えられたと推定される。
国司制度が復活したものの、武家は「守護」として併置された。
京都にいる今のうちに退治しなくては、後の世に大変なことになりますっ!
私を征夷大将軍に任命して下さい!
ってか、お前、勝手に武士の頭目を気取りやがって何様?
武士を支配するのはこの私じゃ。
あんまり勝手な真似すんなよ。
父上では武士がついていかないことをおわかりではない、、
今度の天皇は功績のあったものに土地をくれるんだとよっ!
ちょっくら京都に行ってこねーか??
え?ちょっと量が多くね?え~~??
土地の保証は綸旨によるという布告を聞いた人々は、大挙して京都にのぼり、綸旨の発給を求めた。なかには戦乱のどさくさにかこつけて、領地を不当に入手しようとする者もいた。
「詳説日本史研究」p176
さすがに天皇1人でできるわけないーーっ!
建武の新政が続くわけないーーーっ!!
元弘3年(1333年)6月4日、京都に戻った後醍醐天皇は目を疑った。不撓不屈の執念でようやく鎌倉幕府を滅ぼしたはずなのに、京都で足利尊氏が、もう次の幕府のような組織を運営していたからだ。建武政権は、成立したその日に、すでに挫折していた。
「室町の覇者 足利義満」(桃崎有一郎)第1章p15
だから、あとは後醍醐天皇が兄上に「征夷大将軍」の肩書を与えれば、それで天下はうまく回るんですよ。