こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「建武政権②:1333年7-12月」です。
護良親王は征夷大将軍の任を解かれます。
護良親王配下のものたちによる乱暴の責任をとらされたものと考えられております。
一方、北畠顕家が派遣され「陸奥将軍府」が設立されました。
これに対抗する形で「鎌倉将軍府」が設立され、足利尊氏実弟・足利直義が派遣されます。

元弘3年(1333年)7-12月年表
7/23 | 諸国平均安堵法発布 ※「個別安堵法」が改められて、後醍醐天皇だけが土地の綸旨を与えるという構図が崩れた。 |
8/5 | 足利高氏、尊氏に改名 ※後醍醐天皇(尊治)より偏倚を受ける。 |
8/16 | 鎌倉幕府9代将軍守邦親王、死去 ※在職24年であるが、その存在はほとんど無視されていた。 |
9/10 | 雑訴決断所が設置される ※記録所の業務がパンクしたため、所領問題を専門に扱う組織として設置される。 ※公家のほか、武士も登用され、楠木正成、高師直らが就任。 |
9/- | 護良親王、征夷大将軍解任 ※護良親王が出した綸旨も無効化となる |
10/20 | 「陸奥将軍府」が設立され、北畠顕家(16歳)が派遣される。 ※後醍醐天皇皇子の義良(のりよし)親王(6歳)、父親の北畠親房とともに。 ※11/29、多賀城到着。 ※天皇が奥羽地方を重視したとも、左遷とも、足利尊氏の東国勢力へ睨みを効かせるための護良親王の計略とも言われる。 ※北条残党と戦う。(奥州は北条氏の強固な勢力圏であった。) ※当時、陸奥・出羽両国は日本の半分を占める広大な領域と認識されており、建武政権は奥羽地方を重要視していた。 |
12/11 | 津軽大光寺合戦 ※安達高景(安達時顕嫡男)・名越時如ら北条残党が決起。 ※工藤貞行ら北畠顕家方に就いた豪族らの活躍で鎮圧。(~1334.11) |
12/14 | 「鎌倉将軍府」が設立され、足利直義(27)が派遣される。 ※後醍醐天皇皇子の成良(なりよし)親王(8歳)とともに。 ※役割的に成良親王が将軍、足利直義が執権。 |

おい、護良!お前のところの配下の輩が京で騒いどるらしいなっ!
みんな迷惑してんねんって!

主上!これは尊氏めの策略でございます、、

なんだ、お前、息子の分際でわしに意見するのか!
はいっ、征夷大将軍解任ー!
そもそもワシは征夷大将軍なんて要らんわ。

アハハ、親子喧嘩かな?
護良くんに「征夷大将軍」って名前がついてると何かと厄介なんだよ。
だって、「武家の棟梁」って僕でしょ??

おのれ、尊氏め、、
でも、次の手は「陸奥将軍府」設立だっ。
顕家、親房、頼むぞっ。

OK、親王!
関東に大きな勢力を持つ足利に睨みを効かせるんだね!
ウチの息子は顔も性格も良いけど、腕っぷしも良いよーっ!

うぬ、私はこっちでまだやることあるから頼むぞ、、

へー、そう来るかっ(笑)。
じゃあ、こっちも対抗しちゃうね。
直義(弟)はケンカは僕より弱いけど、組織を束ねる能力は高いよ。
どうなるかな?

兄さん、任せてよ。

ん?ワシ、なんか言いくるめられてる?
尊氏って霊能力もってる?
なんか圧がハンパないし、、

尊氏さんのオーラに対抗できるのは私くらいかな、、
ちなみに陸奥将軍府の統治体制は鎌倉幕府の組織・制度と酷似しており、「奥州小幕府」とも呼ばれます。