~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「建武政権⑩:1336年1月」です。

京都を占領した足利尊氏でしたが、

奥州から猛スピードで駆けつけてきた北畠顕家の前に撤退を余儀なくされます。

建武3年(1336年)1月年表

1/2北畠顕家、鎌倉攻略

※前月22日に奥州を発っていた。
※足利義詮、桃井直常の軍を破る。
1/8足近・尾張小熊(岐阜県羽島市)・高桑河原(岐阜市)で合戦

※尊氏方は三河周辺の防備を固めるために東海地域に残った同門の吉良貞家や、その配下の本間有佐が参戦。
1/10淀大渡の戦い

※中国四国の軍を率いてきた細川定禅(足利方)と天皇方の対決で細川定禅が勝利。
※後醍醐天皇は逃亡を余儀なくされる。
1/11足利尊氏、入京

※後醍醐天皇は比叡山に逃げる。
※後醍醐天皇の忠臣、「三木一草」の1人として知られる結城親光は偽装降参して、足利尊氏を殺そうと考えたが、怪しんだ尊氏は大友貞戴を遣わせ、大友が親光に「降参するなら武具を脱げ」と命じたところ、親光は計略が見破られたと悟り、大友を刺して、自身も大友の軍勢に殺される。
1/13北畠顕家、近江愛知河宿(滋賀県愛荘町)到着

※その日のうちに大館幸氏、佐々木六角時信が籠城する観音寺城(滋賀県近江八幡市)攻略。
※多賀国府を出発してわずか20日あまりという伝説的速さ。
※この軍勢には結城親光の父・宗広、兄・親朝もいた。彼ら奥州結城家にとっては息子・弟のリベンジでもあった。
1/13信濃守護小笠原貞宗、村上信貞とともに清滝城(長野市)を攻撃

※時行方が潜んでいたと考えられるが、誰であったかは定かではない。
1/14北畠顕家、東坂本(滋賀県大津市)到着、後醍醐天皇に対面

※楠木正成、新田義貞との連携が可能に。形勢逆転。
※3日間かけて奥州の大軍を琵琶湖を通じて渡航させる。(近江八幡は琵琶湖の東、坂本は琵琶湖の西に位置する)
1/16北畠顕家、新田義貞、園城寺攻略

※足利方の細川定禅は逃亡。
※足利直義、高師直の軍にも攻撃を仕掛け、これを破る。
※その後、新田義貞は京都に攻め込むが、細川定禅の知略に敗れる。
1/17小笠原貞宗、村上信貞、清滝城を攻め落とす

※その後、牧城攻めへ。
1/20新田義貞、尊良親王と合流

※鎌倉から戻ってきた尊良親王軍2万と合流。
1/23村上信貞、市河経助らの軍勢を率いて牧城(長野市)を攻める

※6月にも攻める。
※牧城には茂野氏の一族である香坂氏がいた。
※ただ、香坂氏が時行方であったかは確認できない。
1/27第1次京都争奪戦(第1次京都合戦)

※北畠顕家、粟田口から京都に侵入し、足利尊氏本軍へ攻撃。
※楠木正成、新田義貞も足利軍を攻撃。
1/30足利尊氏、撤退

※丹波国篠村八幡宮に撤退。
※鎌倉幕府に反旗を翻した場所でもある。
足利尊氏
せっかく京都に来て後醍醐天皇に挨拶でもしようかと思ったけど、
比叡山に逃げちゃったかー。

さては楠木正成の入れ知恵かな??

あ、あと暗殺するならもっとバレないようにした方がいいよ。

後醍醐天皇
うぬぬ、天皇であるこの私が逃げないといけないなんて、、

親光の捨て身の計略も見抜かれたか、、、

楠木正成
天皇、もうしばしお待ちを。
私に策略がございます。
北畠顕家
奥州から東国武士たちを連れて、参りましたぞ!

途中、鎌倉も占領しましたぞ!

新田義貞
おお、顕家殿!

東国武士がいれば百人力。

っていうか、めちゃ速いなーー。
神速かよ。

楠木正成
うぬぬ、、

東国と西国では馬への練度が違うとはいえ、顕家どのの行軍スピードは、とんでもない、、

顕家どのなら尊氏に勝てるかも!

しかし、義貞どのはリーダーのつもりか知らんけど、どうも好かん、、

この時の北畠顕家の行軍スピードはのちの「秀吉の中国大返し」をはるかに上回るスピードと言われておりますねー。
足利直義
兄さん、またやられたよー
足利尊氏

奥州武者は侮れんな、、

ひとまず西に逃げるぞ!

新田義貞
尊氏さま、ぜひ私と一騎討ちを!
足利尊氏
ははは、そんな暇はないんだな。

義貞、またあとで相手してやるよ。

北畠顕家
ここは勝機。尊氏を追いましょう!
 小笠原貞宗
北条時行はどこだ~??

なかなか見つからんのぉー