~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「建武政権⑯:1336年9月」です。

京都争奪戦に敗れた後醍醐天皇方は比叡山の財力、兵力をもとに再起を伺っておりました。

しかし、近江国からの補給路を足利方に絶たれ、降伏を余儀なくされました。

建武3年(1336年)9月年表

9/1畠山国清(足利方)vs 岸和田治氏(楠木残党)、畠山国清優勢

※岸和田治氏は湊川の戦いを生き延びたとされる。現在の「岸和田市」と大いに関連。
※畠山国清優勢となり、岸和田治氏は籠城。
9/7岸和田治氏の逆襲により畠山国清撤退

※中院定平、橋本正茂らの援軍により岸和田治氏は城を出て畠山国清を挟撃。
※その後も楠木一族らとともに大阪南部で抵抗を続ける。
※この地域は鎌倉幕府への抵抗のシンボル的な場所であり、尊氏も戦の長期化を懸念していた。
9/薊山(あざみやま)合戦(?)

※伝承自体に差があり、1337年説もある。
※北畠顕家が現:埼玉県本庄市で戦う。
9/-小笠原貞宗、近江進軍、新田義貞を破る

※なおも義貞は反撃。
9/29「近江の戦い」で佐々木道誉・小笠原貞宗が新田義貞・脇屋義助を破る

※比叡山に籠城した後醍醐天皇は延暦寺の豊富な財力、兵力を頼りに再起を伺っていた。
※小笠原貞宗、佐々木道誉は合流し、木浜役所(滋賀県守山市)に陣をおく。
※両軍は伊岐代(いきしろ)・馬場(以上、滋賀県草津市)で交戦。足利方が圧勝した。
※足利方が近江国から延暦寺への補給路を抑えたことで、建武政権・比叡山は、降伏することとなった。
(→新田義貞は恒良親王、尊良親王を奉じて北陸へ向かう)
滋賀県。隣接する福井県への道を、地元民は「鯖街道」と呼んでいた。新田義貞もおそらく鯖街道を通って越前国に逃れたか?
足利尊氏
貞宗、東の方からやっちゃって^^
小笠原貞宗
はい、かしこまりました。

私の弓で蹴散らしましょう。

佐々木道誉
さすが貞宗どのだ。やりますなー。

私も合流しますねー。

新田義貞
佐々木に小笠原か、さすがに強いが、反撃しちゃる!
後醍醐天皇
えー、義貞、、

 

もう無理ちゃうかな、、

山門(比叡山)への補給路も封じられてしまった、、

新田義貞
え、まさか降伏なんてする気じゃないでしょうね?

そんなことされたら私の立場はどうなるんですか!

後醍醐天皇
それもそうじゃが、京都はもう無理じゃ、、

 

義貞、息子たちを連れて北陸で再起をはかるのはどうじゃ??

新田義貞
北陸王朝ですか、わかりました、やってやりましょう
足利尊氏
あれー、内部分裂でも始めちゃったかなー??
北畠親房
しょうがない、私は息子の顕信を連れて伊勢で反撃の機会をうかがいましょう。

 

南河内では楠木どのの息子たちが頑張っておられる。

まだまだ負けてたまるかー!