こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「1927年の第1次若槻内閣総辞職の経緯」についてです。
当時、「戦後恐慌」、「震災恐慌」と続き、慢性的な不況に陥っておりましたが、さらに片岡蔵相の失言から「金融恐慌」が起こりました。
第1波は10日ほどで終息しましたが、その後、「台湾銀行問題」という第2波が訪れました。
この金融恐慌により、「憲政の常道」に基づいて憲政会から立憲政友会に政権移行した、と思われがちですが、
若槻内閣総辞職の原因は「金融恐慌」だけではなく、「政争」も絡んでいるようです。
以下、「戦争とファシズムの時代へ」「満州建国の真実」などを参考にさせて頂きました。
若槻禮次郎vs枢密院:経過
1.【台湾銀行問題】
【台湾銀行問題】(金融恐慌第2波)
総合商社「鈴木商店」が倒産。鈴木商店に多額の融資を行なっていた台湾銀行も破綻の恐れ。
★鈴木商店・・・第1次世界大戦中に三井、三菱と並ぶ総合商社へ発展した。その後、不況に陥り倒産。台湾にいた後藤新平のバックアップもあり、融資元も主に台湾銀行。
★台湾銀行・・・1899年創業。政府系の特殊銀行。
★金融恐慌第1波は片岡蔵相の失言によるもの。これにより、引き出しを求める預金者が殺到したが、日本銀行が4億円超の「非常貸し出し」を行なうなどで10日ほどで収束。
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2.【若槻内閣の緊急勅令案】
【若槻内閣の緊急勅令案】
「日銀は台湾銀行に特別融資を行なう。政府は日銀に二億円を限度として補償する。」この案を枢密院を経て実行すべし。
★ちなみにこの前にも日銀に支援を要請したが断られている。
★緊急勅令・・・大日本憲法第8条および第70条にある。
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3.【枢密院の反対】
枢密院・・・天皇の諮問機関。隠然たる権力を持つ。
【伊東巳代治】
枢密院顧問。(大日本帝国憲法起草者の1人としても知られます。)
「一銀行の救済に国庫を支出する一方、中国在留邦人の窮状を無視するのか!」・・・南京事件(1927.3)の対応について怒り、緊急勅令案を拒否、総辞職を要求。
★とはいえ、伊東巳代治は自論を言いたかっただけであり、枢密院の総意ではない。(『戦争とファシズムの時代へ』)
【平沼騏一郎】
枢密院副議長。国粋主義者。若槻の緊急勅令案に猛反対。背景には、1926年、彼の弟分である鈴木喜三郎を立憲政友会に送り込んでいたたため、倒閣を狙ったと考えられています。
結果、緊急勅令案は賛成11、反対19で否決。
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4.【若槻内閣総辞職】
【若槻内閣総辞職】
枢密院で否決されたからといって総辞職する必要はないのですが、自信をなくした若槻は内閣総辞職します。
これを受けて元老・西園寺公望は田中義一を後継首相にするよう即座に昭和天皇に奉答。田中義一内閣成立。
その後の「金融恐慌」
1927.4.17 | 若槻禮次郎内閣総辞職 |
1927.4.18 | 台湾銀行が休業 |
1927.4.19 | 泉陽銀行ほか三行が休業 |
1927.4.20 | 広島産業銀行ほか一行が休業 政友会総裁・田中義一が組閣 |
1927.4.21 | 十五銀行が破綻 |
1927.4.22 | 高橋是清蔵相がモラトリアム(三週間の債務支払猶予令)施行 (今度は枢密院は可決) 日銀総裁井上準之助は巨額の救済融資を行なう ↓ これらにより収束 |
余波
★金解禁が遅れる
★6月、憲政会と政友本党が合流して立憲民政党が発足。
★田中内閣は不況脱出のために国債発行・国庫余剰金取り崩しなどで積極的な財政支出を行なう。これらにより生産も物価も上昇したが物価上昇による副作用で国際競争力低下、貿易赤字。
まとめ
①金融恐慌による混乱
②南京事件穏健解決による反感
+
③平沼騏一郎ー鈴木喜三郎ライン(司法省、国粋主義)
④伊東巳代治ー田中義一ライン(長州閥)
↓
⑤枢密院による緊急勅令案反対
↓
⑥若槻禮次郎は自信をなくす
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