こんにちは。
今回ご紹介しますのは『バテレンの世紀』第13章。
「伴天連追放令」が出たのが1587年。
「サン・フェリーペ号事件」が起きたのが1596年です。
話は遡って1580年、スペインのフェリペ2世はポルトガル王も兼任することになりました。
しかし、実際はスペインとポルトガルは別の国であり、これにより以前より敵対関係が強くなったとも言われております。
「伴天連追放令」下においてポルトガル系の宣教師たちは「ひっそりと」活動を行なっておりましたが、
スペイン系修道会はそんなポルトガル系を意に介さず、堂々と布教活動を行ないました。
そして、1596年、アカプルコに向かう途中のスペイン船「サン・フェリーペ号」が土佐に漂着するのです。
サン・フェリーペ号事件
ヴァリニャーノは京都で秀吉に会い関係改善に尽力するなど努力をしておりました。
しかし、どういう経緯でそうなったのかはわかりませんが、
1594年、スペイン系修道会である「フランシスコ会」が京都に教会を建てます。
当時の日本において、「イエズス会」の他に「スペイン系」と呼ばれる「フランシスコ会」、「ドミニコ会」、「アウグスティノ会」といった修道会が食い込んできました。
っていうか、なんで堂々と布教すんねん!!
トルデシリャス条約で日本はポルトガルの担当地区と決められていました。
それにも関わらず、スペイン系修道会はイエズス会が日本を独占していることに憎しみを覚え、来日するのです。
1494年、地球の半分をスペインとポルトガルで分けようと勝手に線を引いた身勝手な条約。現在でもブラジルだけ公用語がポルトガル語である。
さらに、来日したフランシスコ会は、イエズス会が堂々と布教していないことも嫌います。
ようやく貿易継続も決まって、教会再建も認めてもらえたっていうのに!
そんな状況下で、1596年、アカプルコに向かう予定であったスペイン船「サン・フェリーペ号」が土佐に漂着します。
ここで、漂着した乗組員を尋問したところ、乗組員が「とんでもないこと」を口走ったと言われています。
ほんで、それを足掛かりに征服して植民地獲得してきたみたいなんやでー。
ま、ワシ、船乗りだから細かいことよーわからんけど。
これを聞いた秀吉は激怒。
大坂の宣教師逮捕とバテレン追放令の再交付を行ないます。
オルガンティーノは殉教を覚悟したそうです。
しかし、石田三成の計らいで「イエズス会は大丈夫」という確約を得ました。
問題はフランシスコ会。
信者含めて26名の処刑が決定しました。
フランシスコ会とイエズス会の不和も決定的になります。
「ポルトガル人は他国民の日本渡航を妨げる」
だの、
「インド副王使節はニセモノだ」
だの吹いてやがった。
おかげで長崎の教会堂もぶっ壊された。
ペルーであれ、メキシコであれ、フィリピンであれ、軍事的侵攻のあとに宣教なんですよ。
1597年、長崎にて処刑実行。
この件は「日本26聖人の殉教」として伝えられることになる。
(♨カトリック系の小学校に通う娘もこの件を美談として習っていましたが、複雑な心境です。)
【コチラも】