こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「堀河天皇」時代です。
なんと申しましょうか。
堀河天皇は院政時代に咲いた「あだ花」のような存在だったと思います。
あだ花・・・ 「実を結ぶことなく、はかなく散り去る花。」
(Weblio/実用日本語表現時点)
第73代:堀河天皇期(1087~1107年)
【堀河天皇】1079年生~1107年没。
白河天皇皇子。母は白河天皇の寵愛を受けた賢子(※1084年、28歳で死亡)。
1087年に即位し、多くの人に親しまれるが、幼少からの病弱もあり29歳で死亡。
以後、本格的な白河院政になる。
堀河天皇
8歳で天皇
清和天皇が9歳で即位しましたが、堀河天皇は8歳。
摂関時代も、院政時代も基本的には幼帝ですね。
後三条天皇の遺言に従えば叔父である輔仁親王が天皇になるはずでしたが、
白河天皇が優秀な弟に皇統を奪われることをとにかく嫌いました。
【石ノ森章太郎 マンガ日本の歴史】13巻より。
(上)中宮賢子の死を悲しむ白河天皇。
病の際、通例では天皇は隔離されるが、白河はずっと側にいた。
(下)輔仁親王に皇統を渡したくないために堀河天皇を擁立した白河天皇。
姉さん女房
妻となったのは篤子内親王。父親は後三条天皇。つまり、「おば」と結婚した。年の差19歳。しかし、共に学問、和歌、音楽などの教養が高く、仲睦まじかったようだ。
ちなみに、ヤクルト・巨人などで活躍したペタジーニ夫婦は年の差25歳。
もう1人の妻は藤原苡子(1076-1103)。こちらは3歳上。鳥羽天皇を産むが、難産のため死去。28歳。
評判が良い
「讃岐典侍日記」・・・乳母の妹である藤原長子も堀河天皇を絶賛。
「続古事談」・・・鎌倉時代初期に成立した説話集。「末代の賢王」と書かれる。
「発心集」・・・鴨長明。政務の評価として、 「天が下治まりて、民安く世のどかなり」 と書かれる。
管弦の腕前もプロレベル。
早世・・・(ToT)/~~~
そんな良い人に限って早世してしまうというのが、世の儚さ。
堀河天皇時代年表
1087 | 後三年の役、終わる 堀河天皇即位 |
1090 | 熊野三山に検校が置かれる |
1091 | 源義家と義綱が争う 白河上皇は義綱を支援。義家への荘園寄進を禁止するなどして、戦力の拮抗を狙う。 |
1093 | 神木動座のはじめ(興福寺) |
1095 | 神輿動座のはじめ(延暦寺) |
1096 | 京で田楽が大流行(永長の大田楽) |
1097 | 平正盛、伊賀国鞆田の所領を六条院に寄進 白河法皇の寵愛を受けた祇園女御の信頼を得る。正盛は北面の武士にも取り立てられる。 |
1098 | 源義家が武士としてはじめて院昇殿を許される ※名声を聞いて、白河法皇は源氏を取り込む方向に。 |
1106 | 源義家死去。 ※源氏は内紛などもあり、正式な棟梁がいない時期もあり。 |
1107 | 堀河天皇死去 ※惜しまれながら29歳で死亡。息子の鳥羽天皇が天皇に。院政本格化。 ※鳥羽天皇の息子が崇徳と後白河。 |