こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「日独伊三国同盟締結の時期に行なわれていた桐工作」についてです。(前回はコチラ。)
「汪兆銘工作」を別名「梅工作」と呼ぶのに対して、蒋介石との直接交渉を試みたことを「桐工作」と呼びます。
陸軍省の実務トップとなった武藤章らは、この「桐工作」に大きな期待を寄せておりました。
しかし、宋美齢(蒋介石の妻)の弟を名乗り交渉を行なっていた人物は、国民党のスパイでした。
「梅工作」への攪乱などが狙いであったと考えられております。
以下、「総力戦のなかの日本政治」、「昭和陸軍の軌跡」などを参考にさせて頂きました。
また、桐工作終了同日、長らく回答を保留していた「日独伊三国軍事同盟」も締結されております。
【年表】1940年、「桐工作」と「日独伊三国軍事同盟」
年 | 日中関係 | それ以外の動き |
---|---|---|
1938.8 | ドイツから英仏も対象とした日独伊三国同盟締結の依頼。日本は態度を保留。 | |
1938.11.3 | 第2次近衛声明 「東亜新秩序」 | |
1938.11.20 | 重光堂会談 「日華協議記録」 | |
1938.11.30 | 御前会議 「日支新関係調整方針」 | |
1938.12.22 | 第3次近衛声明 「近衛三原則」 撤兵明言せず | |
1939.1 | 英仏への対応を巡り閣内不一致。近衛内閣総辞職、平沼内閣誕生。 | |
1939.4 | リッペントロップ外相(独)、日本が同盟に躊躇するならドイツはソ連と不可侵条約を結ぶかもしれないと警告。陸軍は日中戦争へソ連の参戦を恐れる。 | |
1939.6.14 | 天津の英仏租界封鎖 (日中戦争が長引く原因はイギリスが支援しているからと考えた) | |
1939.7.26 | アメリカ、日米通商航海条約破棄 (アメリカはイギリスをバックアップすることとなった) | |
1939.8.23 | 独ソ不可侵条約。平沼内閣はドイツとの交渉を打ち切って総辞職。 | |
1939.9.1 | 第2次世界大戦勃発。阿部内閣は欧州不介入を宣言。武藤章が軍務局長となり、陸軍実務トップに。 | |
1939.12. | 1939年末より宋美齢(蒋介石妻)の弟、宋子良を名乗る人物と交渉開始(※1) | |
1940.3.30 | 南京国民政府樹立 | |
1940.5 | 現地の要望で中国軍増派 | |
1940.6.22 | フランスがドイツに降伏 | |
1940.7.22 | 第2次近衛内閣 | |
1940.9.23 | 日本軍部隊が独断で北部仏印進駐 | |
1940.9.27 | 桐工作打ち切り(※2) | 日独伊三国軍事同盟締結 (近衛の了解のもと、松岡洋右主導) |
1940.10 | 大政翼賛会設立 | |
1940.11. | 汪兆銘政府と基本条約締結(※3) |
(※1)「宋子良」なる人物
汪兆銘との交渉がまとまる頃、宋子良なる人物を通じた重慶国民政府との和平交渉が開始されました。
近衛文麿と蒋介石の親書交換、汪兆銘と蒋介石の合作と局地停戦協定などの具体的なシナリオも作られます。
(『木戸幸一日記』にもこうした動きが細かく書かれており、日本側の期待の高さも読み取れます。)
しかし、「宋子良」なる人物は重慶国民政府のスパイだった、といわれております。
もっとも、詳細は不明です。
(※2)「桐工作」打ち切り
いずれにしても「桐工作」は打ち切りとなりました。
※このほかにも、日本陸軍は日中戦争の戦局打開のため、蔣介石のライバルと目される要人たちの懐柔を図っておりました。北京では大迫通貞大佐が「竹工作」、台湾では山本募大佐が「菊工作」を、上海では和知鷹二が「蘭工作」をそれぞれ行いました。
同日、「日独伊三国同盟」が結ばれます。
(※結論だけ言いますと、日本は日中戦争の解決を欧州戦線で戦果をあげているドイツの威光に頼ったのです。)
(※3)汪兆銘政府と基本条約締結
【日本国中華民国間基本関係に関する条約】
★日本人顧問派遣
★軍隊の蒙彊・華北の一定地域への駐屯
★艦隊部隊の駐留
★埋蔵資源の開発
など
結果的に日本は、すべての停戦工作に失敗しました。
まとめ
★しかし、蒋介石の妻の弟と思って交渉していた人物は国民党のスパイだった。
★桐工作は失敗。
★同日、日独伊三国同盟締結。
日中戦争ここまでのまとめ
1R
「盧溝橋事件」(1937.7.7)
「松井ー秦徳純協定」(1937.7.11)
「最後の関頭声明」(1937.7.17)
「廊坊事件」(1937.7.25)
「広安門事件」(1937.7.26)
「通州事件」(1937.7.29)
「船津和平工作」(1937.8.9)
2R
「大山事件」(1937.8.9)
「第2次上海事件」(1937.8.13)
「石原莞爾参謀本部転出」(1937.9.27)
3R
「第1次和平案」(1937.11.2)
「上海占領」(1937.11.9)
「南京占領」(1937.12.13)
「第2次和平案」(1937.12.21)
「第1次近衛声明」(1938.1.16)
4R
「徐州占領」(1938.5.19)
「宇垣外相辞任」(1939.9.30)
「武漢占領」(1938.10.27)
5R
「第2次近衛声明」(1938.11.3)
「日華協議記録」(1938.11.20)
6R
「汪兆銘重慶脱出」(1938.12.18)
「第3次近衛声明」(1938.12.22)
「近衛辞任」(1939.1.5)
7R
「汪兆銘ハノイ脱出」(1939.4.25)
「天津事件」(1939.6.22)
「汪兆銘政権樹立」(1940.3.30)
8R
「桐工作失敗」(1940.9.27)
「日独伊三国同盟」(1940.9.27)
まだまだ続く・・・