こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「松岡外相がつぶした日米諒解案」についてです。
「日米諒解案」の本国への伝え方について野村吉三郎大使も非難されることがありますが、いずれにしてもこの案件は松岡の横槍によって潰される形となりました。
以下、「満州建国の真実」、「昭和史講義」、「昭和陸軍の軌跡」、「総力戦のなかの日本政治」などを参考にさせて頂きました。
【年表】日独伊三国同盟(1940.9.27)~日米諒解案消滅(1941.6.21)
1940-41 | 日米関係 | その他の動き |
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6.22 | フランス、ドイツに降伏 | |
7.22 | 第2次近衛内閣成立 | |
9.23 | 陸軍、独断で北部仏印占領、富永恭次作戦部長更迭 | |
9.27 | 日独伊三国同盟締結(※1) | |
10.10 | 田中新一、参謀本部作戦部長へ | |
10.12 | 近衛内閣、大政翼賛会発会 | |
11. | ドラウト神父来日、井川忠雄(もと大蔵省)と会談(※2) | |
3. | 井川忠雄、岩畔豪雄(陸軍)が訪米、野村吉三郎(駐米大使)、ハル国務長官らと「日米諒解案」作成(※3) | |
4.13 | 日ソ中立条約(松岡洋右) | |
4.18 | 野村大使、「日米諒解案」を本国へ伝える(※4) | |
5.12 | 松岡洋右外相、修正案を提示(※5) | |
6.12 | アメリカからさらに修正案提示(※6) | |
6.21 | 自然消滅(※7) | |
6.22 | 独ソ戦開始 | |
7.16 | 第2次近衛内閣→第3次近衛内閣 松岡を外相から外す(→豊田貞次郎)z | |
7.25 | 在米日本資産凍結 | |
7.28 | 南部仏印進駐 | |
8.1 | 対日石油禁輸 | |
8.8 | 近衛首相、ルーズヴェルトに首脳会談要求 | |
8.9 | 対ソ戦断念 | |
8.14 | 大西洋憲章 | |
10.11 | 野村駐米大使より日米交渉不可能と告げられる | |
11.26 | ハルノート提示 | |
12.1 | 御前会議 | |
12.8 | 真珠湾攻撃、日米開戦 |
(※1)松岡洋右、日独伊三国同盟強行
「日独伊三国軍事同盟」は近衛首相の支持があったにせよ、松岡洋右外相主導で行われました。
(※くれぐれも陸軍主導ではありません)
アメリカは神経を尖らせます。
及川古志郎海相や枢密院議員(議長:原嘉道、顧問官:深井英五、石塚英蔵、石井菊次郎)の反対を押し切ってまでして調印しました。
(※2)井川忠雄
日米ともこの流れに危機感を抱いていた「非開戦派」がいました。
ドラウト神父はアメリカ郵政長官ウォーカーの依頼を受けて来日し、産業組合中央金庫理事の井川忠雄に日米首脳会談を提案しました。
【井川忠雄】(1893~1947)
大蔵省出身。「昭和研究会」にも所属。1936年に退官し、天下りしていた。
(※3)日米諒解案
井川は同じく非戦派の陸軍省軍事課長・岩畔豪雄(【陸軍中野学校の創始者:コチラも】)とともに訪米し、野村吉三郎駐米大使、コーデル・ハル国務長官と話し合いを繰り返し、「日米諒解案」をまとめます。
※ただ、あくまでも、これは日米首脳会談前の「たたき台」に過ぎないものでした。
【日米諒解案】
①日本軍は支那から撤兵する。支那は満州国を承認する。蒋介石政権と汪兆銘政権は合体する。日本は支那を併合しない。非賠償。
②日本が武力による南進を行なわないと保証すれば、アメリカは日本の南方資源調達に支持と協力を与える。
③新たに日米通商条約を締結し、日米両国の通商関係を正常化する。
これを見て近衛(首相)、東條(陸相)、武藤(軍務局長)、岡(海軍軍務局長)ら、「これで日米開戦が避けられる!」と喜んだものでしたが・・・
(※4)野村吉三郎は素人か?
しかし、野村吉三郎駐米大使が日本に打電した内容は、肝心な部分などが伝えられておりませんでした。
民間からスタートしたことなどを含めて、このあたりが「素人外交」と批判されるところでしょか。
【伝えられなかった「ハル4原則」とは】
①領土保全と主権尊重
②内政への不干渉
③通商の機会均等
④平和的な手段によらなければ太平洋の現状を変更しない
(つまり軍事行動の否定。)
この4原則を日本が認めることで「会談の基礎」となる
【コチラも】
野村吉三郎は、これを伝えたら交渉は日本の態度が硬化して決裂すると思ったために伝えませんでした。
(♨気持ちはわからないわけではないけど、やっぱり、こういうのは悪条件でもちゃんと伝えないといけなかったのでは・・・。おそらくどの仕事も最初に厳しい説明をしないといけない場面は多々あるだろうだけに、この件だけでもいろいろ勉強になるかと思います。)
また、日本側は「日米諒解案」をルーズヴェルトもハルも了解しているものと勘違いしておりました(orz・・・)。
(※5)松岡洋右が日米諒解案を握りつぶす
しかし、もっとも問題があったのが松岡洋右外相です。
自分の頭越しに重要な案件が進められたことに立腹。
まして、自身は、日独伊三国同盟にソ連を加えた「四国同盟」を進めていただけになおさらのことでした。
そのため、強硬な内容を加えた「修正案」をアメリカに提示することになります。
(※6)アメリカも強硬案
これにはアメリカも驚きました。
そこで、より強硬な内容に変更。
中には、「松岡洋右の更迭」も含まれていました。
(※7)独ソ戦開始で自然消滅
そうこうしているうちに「独ソ戦」が勃発。
ひとまずイギリスの危機が回避されたこともあり、日米諒解案を急ぐ必要もなくなりました。
この半年後、日米開戦となります。
まとめ
★首相、軍部は歓迎。唯一、松岡外相が反発。
★松岡の出した修正案はアメリカの態度を硬化。
★もっとも、野村駐米大使も「ハル四原則」を伝えていなかった。
(伝えたら交渉決裂すると思ったから)
★最終的に「日米諒解案」は自然消滅。半年後、開戦。
コチラも