こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「平沼内閣誕生(1939.1)から南京政府樹立(1940.3)まで」についてです。
汪兆銘の南京政府樹立までの過程で、日本の交渉過程に問題がありました。
この件から学べることとしましては、「本気で何かを望むとするならば、あれもこれもと付け加えない」ということでしょうか。
一度は決まった条件から、交渉のたびに条件を加重したことでさすがに相手側も態度を硬化するでしょう。
見返すと、日中戦争の停戦工作はほとんどがこの繰り返しです。
チャンスはあっただけに悔やみきれません。
さて、今回の件で長らく中国側の和平派として会談にあたっていた高宗武は日本の態度に愛想を尽かして離脱してしまいました。
そして、日本側の交渉を暴露します。
そんなことがありながらも、なんとか汪兆銘政権が誕生しました。
「1939年」は「独ソ不可侵条約」からの「ポーランド侵攻」、「第2次世界大戦勃発」と世界情勢がめまぐるしく変化した1年でもありました。
【年表】平沼内閣誕生から南京政府樹立まで
1939-40年 | 日本 | 中国 | 世界 |
---|---|---|---|
1.5 | 平沼騏一郎内閣誕生 | 日本、海南島作戦 (→南方進出の足掛かり、かつ援蔣ルート遮断の拠点) | |
3.21 | 汪兆銘、暗殺未遂事件@ハノイ | ||
3.30 | 南沙諸島領有宣言 | 日本の南沙諸島領有に抗議 | |
4.25 | 汪兆銘、影佐機関の手引きでハノイ脱出 | ||
5.11 | ノモンハン事件 | ||
6.6 | 五相会議「中国新中央政府樹立方針」(※1) | ||
6. | 汪兆銘、平沼内閣閣僚と会談@東京(※2) | ||
6.14 | 天津事件以後、大規模な反英運動が起きる | 天津事件 日本軍、天津の英仏租界封鎖 | |
7.22 | 有田ークレーギー協定 (有田外相とクレーギー駐日大使で協定) | ||
7.26 | アメリカ、日米通商航海条約を破棄 | ||
8.23 | 独ソ不可侵条約 | ||
8.30 | 平沼内閣総辞職、阿部信行内閣誕生 | ||
9.1 | ドイツがポーランド侵攻、第2次世界大戦へ | ||
9.16 | ノモンハン事件停戦 | ||
11. | 汪兆銘、影佐禎昭らと交渉(※3) | 高宗武、交渉離脱へ | |
1.16 | 阿部信行内閣辞職、米内光政内閣へ | ||
2.2 | 斉藤隆夫議員によ「反軍演説」(日中戦争批判)(※5) | ||
3.30 | 南京で国民政府成立(※4) 蒋介石は彼らに逮捕令 |
(※1)呉佩孚も候補に?
汪兆銘が重慶から離れた後の五相会議で、汪兆銘だけではなく、呉佩孚(直隷派の軍閥)【コチラも】も連携する政権の候補とされました。
(※2)汪兆銘の希望
国民党から暗殺のターゲットとされておりましたが、影佐機関の手引きもあって、なんとか汪兆銘は脱出しました。
(※腹心が殺害されました。)
そして、東京で行なわれた平沼内閣閣僚との会談で、以下のような希望を出します。
【中国主権尊重原則実行に関しての希望】
・中国は排日・侮日の思想、態度を是正する
・中央政府以下の各行政機関に政治顧問などを設けることは避ける
・中国の徴税機関への操縦を行なわない
・中央の軍事機関には顧問団を設けるが、日本だけではなく、ドイツ、イタリアからも顧問を入れる
・日本がこれまで占領・没収した中国の公営・私営工場・鉱山などは返還
・日本側の資本額を制限
など。
汪兆銘は満州国のような傀儡国家になることを危惧していました。
(※3)交渉開始!話が違う!!
そして、いよいよ本格的な交渉開始。
しかし、日本側がベースにしたのは11月20日に影佐禎昭、今井武夫、高宗武、梅思平で決めた「日華協議記録」ではなく、その後に付け加えられた「日支新関係調整方針」でした。
汪兆銘側は近衛三原則を信じていたために、寝耳に水。
高宗武は交渉から離脱し、日本がどのように交渉を進めてきたのか実態を暴露することとなりました。
(余計に反日感情が高ぶります)
(※4)汪兆銘、南京国民政府誕生
それでもなんとか南京国民政府が成立しました。
南京の「中華民国維新政府」(代表:梁鴻志)はこれに吸収され、
北平の「中華民国臨時政府」(代表:王克敏)は「華北政務委員会」となりました。
しかし、汪兆銘政権は国民の支持を得られず、中国全体に影響をもつことができませんでした。
(※5)斉藤隆夫の反軍演説
一方、日本国内にも日中戦争における政府方針を非難する声もあがりました。
民政党・斉藤隆夫の「反軍演説」がその1つです。
その内容とは、
・第3次近衛声明の通りに新政権を樹立させれば日本の犠牲に見合わないのではないか
・多くの犠牲を払った新秩序とは何なのか
・聖戦の美名に隠れて国民の犠牲を忘れていないか
・そもそも「対手とせず」声明は間違いではないのか
・戦時経済で不公平が生じているという自覚はあるのか
などというものでした。
(演説は1時間半にも及びましたが、その大半が議事録から削除されてしまいました。)
斎藤自身は元々、「陸軍パンフレットへの批判」、「総動員体制への批判」など軍部への批判で名をあげた人物で、今回の「反軍演説」も「斎藤ならこれくらいやるだろう(武藤章)」というものでした。
しかし、今回の演説は軍部、民政党内、社会大衆党などからも問題提起され、圧倒的多数で「議員除名」となってしまうのです。
(政党のこうした動きはのちの「新体制運動」にもつながります。)
まとめ
★しかし、日本側が条件を加重したため、汪兆銘の腹心、高宗武は交渉離脱。日本の交渉過程を暴露。
★それでも汪兆銘による南京国民政府は1940年3月に成立。(第2次世界大戦勃発は1939年9月。)
★これらの裏で日本は汪兆銘以外の候補者にも触手を伸ばしていた。(汪兆銘もさほど中国国民の支持を得ることができなかった。)
★一方、大本営は南方進出への足掛かりをつかむ。英米とは天津事件、日米通商航海条約破棄などで関係悪化。
★国内では斉藤隆夫議員による「反軍演説」が行なわれた。採決の結果、議員辞職となる。こうした動きは「新体制運動」へとつながる。