こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「北伐完了後の蒋介石」についてです。
(北伐まではコチラ)
教科書などではあまり詳しく書かれることはありませんが、北伐完了=中国統一ではありません。
まだまだ戦いは続きます。
【年表】蒋介石北京入城(1928年6月)~中原大戦(1930年10月)
1928.6.8 | 蒋介石、北京入城(北伐完了) |
1928.12.29 | 張学良、蒋介石への服従を宣言 |
1929.1 | 軍縮会議(※1) |
1929.3 | 蒋桂戦争(※2) 【蒋側】・・・蒋介石 【桂側】・・・李宗仁 |
1929.5 | 蒋馮戦争(第1回:※3) 【蒋側】・・・蒋介石、閻錫山 【馮側】・・・馮玉祥、李宗仁 |
1929.10 | 蒋馮戦争(第2回:※4) 【蒋側】・・・蒋介石、閻錫山(こっちに寝返る) 【馮側】・・・馮玉祥、閻錫山、宋哲元 |
1930.3 | 蒋馮戦争(第3回)<中原大戦>(※5) 【蒋側】・・・蒋介石、張学良、イスラム系 【馮側】・・・馮玉祥、閻錫山、汪兆銘 |
1930.10 | 蒋介石の勝利 |
(※1)蒋介石vs軍閥
北伐軍の編成は、
第1軍・・・蒋介石(黄埔官学校卒業生ら)
第2軍・・・馮玉祥(国民軍=西北派)
第3軍・・・閻錫山(山西派)
第4軍・・・李宗仁(新広西派)
からなっておりました。
(つまり、馮、閻、李ら軍閥によるものが大きく、蒋介石の影響力は限定的でした。)
そこで、蒋介石は北伐完了後に軍を再編成して自身の影響力を高めようとします。
これに馮、閻、李らが反発したのが、一連の「反蒋戦争」です。
(※2)蒋桂戦争
第1ラウンドは李宗仁vs蒋介石。
部下の反乱もあって李宗仁は敗北。
勢力を大幅に削られます。
【李宗仁】(り そうじん:1890~1969)
現:広西チワン族自治区出身(この地区は通称:桂)。軍縮に危機感を抱いて蒋桂戦争を起こすが、部下の反乱で敗退。再度、中原大戦に参加するがまたしても敗退。満州事変の影響で大同団結となり、蒋介石のもとで日中戦争を戦う。
(※3)第1回蒋馮戦争
続いては馮玉祥。
李宗仁と連携して反蒋戦争を仕掛けましたが、部下が買収されて敗走します。
そして、閻錫山を味方に引き入れようと説得に赴きましたが、逆に閻錫山に軟禁されてしまいました。
【馮玉祥】(ふう ぎょくしょう:1882~1948)
元・直隷派。郭松齢とともに張作霖と戦った後は蒋介石側についていた。のち、反蒋戦争を行なうも敗北。その後は独自に日本軍と戦う。
(※4)第2回蒋馮戦争
閻錫山も軍縮に危機感を抱き、馮玉祥に謝罪して再び反蒋戦争を起こします。
総司令官は宋哲元となりました。
しかし、閻錫山が裏切り、またしても敗北します。
【閻錫山】(えん しゃくざん:1883~1960)
山西省の軍閥。北伐で活躍。当初は親蒋路線であったが、のち反蒋の立場で中原会戦に臨む。
【宋哲元】(そう てつげん:1885~1940)
馮玉祥配下「五虎将」の1人。のち日中戦争の原因を起こした第29軍を指揮することになる。]
(※5)中原大戦
ようやく閻錫山も自分の身が危ないと感じ、馮玉祥とともに戦うことを決意。
しかし、張学良が蒋介石側についたことで形勢不利となり、結果、蒋介石軍の勝利となりました。
甘粛省の回族(イスラム教徒たち)が蒋介石側につき、馮玉祥を西方から脅かしたことも大きかったと言われます。
(馮玉祥側の足並みも揃いませんでした。これだけ離合集散があればそれも頷けますね。)
【馬仲英】(ば ちゅうえい:1912~1937)
回族。馮玉祥に反旗を翻して、蒋介石側で戦う。
【馬福祥】(ば ふくしょう:1876~1932)
回族出身。第2次奉直戦争以後、馮玉祥と行動を共にするが、次第に兵力を削がれ、中原大戦以後は蒋介石に味方した。イスラム系の教育発展にも尽力。
【狡兎死して走狗烹らる】
中国のことわざで「狡兎死して走狗烹らる」というものがあります。
(こうと しして そうく にらる)
大元帥・韓信のような功績のあったものでも、楚を滅ぼしたら今度は主君である劉邦に狙われる立場となりました。
兎が死ねば、猟犬も不要、それどころか危険視されてしまうのです。
日本にはなじみの薄いことわざかも知れませんが、中国ではよく知られたことわざだそうです。
この時期の軍閥たちの動きを見ていますと、このことわざが身に染み付いているな・・・と思わざるを得ません。
「狡兎死して走狗烹らる」、に近い日本のことわざはあまり思い浮かびませんが、これは文化の違いなのでしょうか・・・
書籍はコチラ。
まんが中国名言故事新品価格 ¥2,200から (2021/2/14 22:21時点) |
まんが中国名言故事 [ 譚小勇 ]価格:2,200円 (2021/2/14 22:22時点) 感想(0件) |