こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「なぜ国際連盟を脱退したか?」についてです。
以下、『教養としての昭和史集中講義』(井上寿一、2016年)第3章「復活の兆しがあった政党内閣と日中戦争の泥沼化」を参考にさせていただきました。
Q) なぜ、国際連盟を脱退したか?
リットン調査団による報告書を承認するか否かの国連採択の結果は、賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム:現タイ)でした。
(※シャムは日本の味方をしたわけではなく、本国からの打電が届かなかったため、どうしてよいかわからなかったからです。)
この結果を受けて松岡洋右外相は国際連盟脱退を「通告」します。
しかし、穏健派の斎藤実が首相に選ばれておきながら、国連脱退とはいかなるものでしょうか。
実は、国連離脱の背景には関東軍の動きがありました。
当時、熱河省と呼ばれていた満州寄りの地域は匪賊の巣窟のような場所で、反日運動が過激化しておりました。
そこで治安維持を目的に満州国軍と関東軍で軍事行動を起こすと言うのです。
タイミングは関東軍が「ベストと思うタイミングで行ないたい」と言います。
しかし。
連盟規約第16条1項に、
「もし非難勧告に不服を申し立てた国が軍事行動に出るようなことがあれば、経済制裁を発動する」
というものがあります。
当時、日本経済は昭和恐慌の真っ只中でした。
アメリカとの結びつきで何とかもっているようなものでしたが、経済制裁を加えられたら、危機に瀕します。
そのため外務省は「先手を打って」国連から脱退することで、国連の経済制裁を免れる、という方法を思いついたのです。
松岡洋右外相は日本の立場を理解してもらい国連に残れるように、
・イギリス(植民地多数で人のこととやかく言えないはず)
・チェコスロバキア(独立の際に、恩義を売って親日国となった)
に根回しをしておりましたが、この熱河作戦による経済制裁を回避するために正反対の行動をとらざるを得なくなりました。
堂々退場、って内心は違うのですよ~。
国連脱退「通告」その後
熱河作戦が実行されたのはまさに松岡洋右が国連脱退を「通告」した直後でした。
そして、外務省の思惑通り、その後「経済制裁」について触れられることはありませんでした。
ただ、通告から2年間は加盟国としての義務を遂行する規定があり、日本の脱退が発効するのは1935年3月27日でした。
欧州諸国はその後、ヒトラーへの対応に追われることになりますが、連盟や列強が日本の脱退通告後も満州問題で静観を続けたのは、脱退が発効する2年間に日本が連盟へ復帰する可能性を期待していたからでした。
日本も国際連盟非加盟国であっても参加できる国際会議には積極的に参加いて国際協調をしていました。
(国際連盟を脱退した後、すべての国際会議に参加しなかったすることになったナチス・ドイツは大違いでした。)
しかし、満州における軍事的勝利を得た陸軍の急速な政治的影響力の上昇と、満州国の建国を日本外交の輝かしい成果と受けとめて熱狂した大衆世論の前に、国際連盟に居残るという選択は失われてしまうのです・・・。
頬かむりしておけば良い!
って言ったのに!
その後、1933年5月には塘沽停戦協定が結ばれ、日中の紛争はひとまず終了。
満州国についてはどうしようもないけど、「関東軍は長城以南には侵攻しない」ということで、折り合いがつきました。
その後、齋藤内閣を継いだ岡田内閣は民政党を重宝し、民政党と得票を伸ばしつつあった無産政党による社会政策を重視した連立内閣を準備していたといわれます。
岡田内閣の次は政党内閣が復活か、と思われておりましたが、1936年2月26日の「二二六事件」でそれどころではなくなってしまうのです。