~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回は、「なぜ田中義一が政友会総裁に迎えられたのか」について紹介したいと思います。

というかですね・・・

この「田中義一」という人、「つかみどころ」なくないですか?

僕も最初に日本史を勉強した時、この「田中義一」という人が「つかみどころ」がなくて困ったんですよね・・・

とりあえず、田中義一について、勉強したものを列記します。

「田中義一」についての評伝

  • 長州閥陸軍出身。山縣有朋の後継者。
  • その流れで「伊藤博文暗殺」に関与??
  • 在郷軍人会の組織化に成功。
  • 「朝鮮二個師団増設問題」で西園寺内閣倒壊の一因を作る。
  • 川上操六に認められてロシア留学。
  • シベリア出兵の黒幕?
  • シベリア出兵の最高司令官時代に不正な蓄財?
  • それを元手に政党政治家に転身?立憲政友会総裁に
  • 「金融恐慌」の際に首相に。「モラトリアム政策」実施。
  • 総理時代に「張作霖爆殺事件」が起こる。
  • 強硬外交」で山東出兵。
  • 国内では日本初の「普通選挙法」を実施。
  • 「三一五事件」、「四一六事件」で共産党員大弾圧。
  • 治安維持法に「死刑」を追加
  • 全国に「特高」を配置
  • 「張作霖爆殺事件」の責任を昭和天皇に叱責され辞任。
  • それが応えたのか持病悪化し死亡。
  • これらのことがありながらも、国民からの人気は高かった。(当時の国民を知るうえで重要なポイントであろう。)
  • 戦争における「文学の重要性」を認識した稀有な軍人。

もうなんだか、3人くらいいるような感じです。

ただ、わかりやすくすると、軍人から政党政治家になって、さらに首相になった、とだけ覚えておけばまずは良いでしょうか。

彼の師匠筋にあたる山県有朋とは正反対の生き様・・・

軍人の最終形態が政党政治家、という見方もできますが・・・。

陸軍出身者が政党内閣に入るということは、第1次世界大戦後の世界的軍縮の結果、軍の組織利益を守るという究極の形であった。

なぜ、田中義一は政友会総裁に迎えられたか?

さて、本題。

戦争とファシズムの時代へ』(河島真、2017年、吉川弘文館:日本近代の歴史⑤)をベースに考えますと、以下の3つが考えられているといいます。

①政友会リーダー候補:横田千之助の急逝

高橋是清総裁時代に党の内外から厚い信望を集め、憲政会、革新倶楽部との護憲三派内閣の成立にも功のあった「横田千之助」が1925年2月に急逝しました。

政友会はもともと原敬が山県との関係を重視したように「挙国一致内閣路線」でした。

横田はそれに歯止めをかけていましたが、その横田が死去したため、再び「挙国一致内閣路線」が勃興し、田中義一に白羽の矢が立った、という説。

②豊富な人脈を持つため、票田として期待された

田中義一は官僚、軍部、貴族院などに豊富な人脈を持っておりました。

また自身が育成した在郷軍人会青年団といった民間組織も掌握できる立場にいました。

時は初の男子普通選挙前。

この選挙で有権者の裾野が4倍に広がることから、田中を「新たな票田」として期待して迎えたという説。

③田中の持つ豊富な資金力

田中義一はシベリア出兵時、機密費を公債化したものを担保に金を融通するなど、不正な蓄財をしたと言われております。

田中も政党入りを望み、政友会も田中の資金を望んだため、田中が政友会総裁に迎えられた、という説。

【まとめ】
田中義一は長州閥で山県有朋の後継。
「軍人→政治家(政友会)」となり、のちに「首相」となった。

政友会入りの理由

①政友会の挙国一致内閣路線
②男子普通選挙法に向けての票田
③田中の資金と総裁地位のバーター

大いに勉強になります。
ただ、首相時代の「張作霖爆殺事件(1928)」(コチラ)では、古巣の陸軍に遠慮して陸軍関係者を処罰できませんでした。

そのことが昭和天皇の怒りを買うわけですねー。

高橋是清
ちなみに、田中さんの前の政友会総裁は、高橋是清。このワシ。
若槻禮次郎
田中さんが首相になったのは私の時の金融恐慌が原因と思っている人もいるかも知れませんが、

 

これは1つの政争なんですよね。

台湾銀行を救済しようとしたら枢密院の平沼騏一郎(国粋主義者)に阻止されたのです。

平沼さんの弟分が政友会の鈴木喜三郎さんだったわけで、民政党内閣の私を倒閣したかったのでしょう。

結局、鈴木喜三郎さんは1度も総理にはなれませんでしたが。

辞職前月の南京事件も影響しているかも知れませんね。

これは北伐軍は南京入城に際して各国の領事館や学校などを襲撃して掠奪を行なった件です。

日米英仏伊は損害賠償を求めましたが、蒋介石は「自分たちの仕業ではない」と支払いを拒否。

(共産党の仕業と言われているようですね・・・)

日本国内では若槻内閣の外交姿勢を批判する声が高まりました。(「軟弱外交」と。)

【年表】(1925年横田千之助死去~1929年田中義一死去)

1925年2月政友会・横田千之助死去

→4月、高橋是清は政友会総裁を田中義一に譲る
1926年1月民政党・加藤高明首相死去。

若槻禮次郎が後継に推挙される。
1927年3月南京事件  

北伐軍は南京入城に際して各国の領事館や学校などを襲撃して掠奪を行なう。日米英仏伊は損害賠償を求めるが蒋介石は自分たちの仕業ではないと支払いを拒否。 日本国内では若槻内閣の外交姿勢を批判する声が高まる。

金融恐慌

第1波は10日ほどで終息。
※3/14 片岡直温「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」と失言

→実際には破綻しておらず取り付け騒ぎになるが、日銀から4億円の緊急貸付などで終息。
1927年4月蒋介石、上海(反共)クーデターにより南京国民政府設立

※若槻ー幣原と田中義一で方針が異なるのは、中国情勢が異なっていたからに他ならない。
(田中義一は中国における利権維持のためには対中強硬にならざるを得なかったと考える。)

若槻内閣総辞職、田中義一内閣誕生  

→高橋是清を大蔵大臣に任命し、モラトリアムを施行。
1927年5月第1次山東出兵  

金融恐慌が一段落したため、北伐軍が迫っていた山東に派兵。蒋介石は反共クーデターもあり、北伐中断。
1927年6月東方会議  

森恪が主導する形で対中政策を討議。
1928年2月第1回普通選挙実施
1928年3月三一五事件

※全国に「特高」設置
1928年4月第2次山東出兵
1928年5月第3次山東出兵
1928年6月張作霖爆殺事件

治安維持法に死刑追加
1929年4月四一六事件
1929年7月田中義一、昭和天皇の叱責を受けて辞職。
1929年9月田中義一、死去。