こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「鎌倉後期㉔:1309-11年」です。
1311年、第10代執権・北条師時が死去します。
満36歳の若さでした。
そして、第9代執権・北条貞時も死去します。
こちらも満39歳という若さでした。
第11代執権には、「嘉元の乱」で貞時の政敵となっていた、北条宗宣が就任します。
とはいえ、実際の政治はまだ内管領・長崎円喜が握っておりました。
延慶2年(1309年)年表
2/- | 寧波から帰国した日本商人・有慶、元に日本再来襲の計画があることを伝える ※日本再来襲計画を行っているのは元の出先機関。出先機関は再来襲計画を立てないと、仕事をしていないと思われる側面もあった。よって、今回のこの「噂」がどこまで本気度の高いものかは不明。 ※当時、元は相次ぐ内乱などで資金繰りが悪かった。 |
延慶3年(1310年)年表
– | 特記なし |
延慶4年/応長元年(1311年)年表
1/7 | 元・3代皇帝カイシャン(29)死去 ※テムルの甥。カイドゥとの戦いで功績をあげる。 ※母と弟によるクーデターによる死亡説。 ※弟のアユルバルワダが即位するが、実権を握ったのは母のダギ。 |
4/28 | 応長に改元 ※疫病により改元 |
9/22 | 執権・北条師時(36)死去 ※評定中に死去したと伝えられる。 |
10/3 | 北条(大佛)宗宣(52)、第11代執権に就任 ※この頃、すでに貞時は病身。 ※実際の政務は長崎円喜、安達時顕が手放さず。 |
10/26 | 得宗・北条貞時(39)死去(※1) ※貞時、長崎円喜、安達時顕に高時を託すと遺言。 ※このとき、高時はまだ7歳。高時は酒浸りな父しか見ていない。 |
(※1)北条貞時、死去!
それにしても貞時どので39歳、執権の師時どので36歳で逝去。
他にもそれなりの役職にありながら、戦以外の理由で20代で亡くなってる武士も数知れず。
ちょっと早すぎないかい?
驚くことなかれ、鎌倉時代の平均寿命は24歳という報告もある。
この時期、改元の多さが示すように天候不順も多かったんだ。
1300年前後は世界的に「寒冷化」が進んだそうですね。
ねぇねぇ、パパ死んじゃったけど、僕、大丈夫かなー?
僕も病弱なんだよねー。
長崎円喜、安達時顕、あとは頼む…
うぃー、酒飲みすぎた…。
あー、とりあえず念願の執権になったはいいけど…
政治って、結構大変なのねぇ…。