こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「鎌倉後期㉚:1325-6年」です。
皇太子・邦良親王逝去に伴い、京都では大覚寺統内の邦良親王派と後醍醐天皇派、および持明院統とが、次期皇太子をめぐって熾烈な争いを繰り広げておりました。
一方、鎌倉でも得宗・北条高時が病気で執権を辞したことによる、次の執権を誰にするかで紛糾しておりました。
また、東北地方では、両安藤氏による「安藤氏の乱」が激しさを増しておりました。
正中2年(1325年)年表
-/- | 安藤氏の乱、激化 ※得宗家は蝦夷代官職を季長から、対立していた季久に替えた。 ※しかし、戦乱は収まらず、却って戦乱が広がる。 |
-/- | 卜部兼好、この頃「徒然草」を著す(?) ※時期については諸説あり。 |
正中3年/嘉暦元年(1326年)年表
3/13 | 北条高時、執権を辞す ※24歳。病気のため。 ※高時の子・邦時を推す内管領・長崎高資と、弟・泰家を推す外戚・安達時顕が対立。 (邦時は側室の子であり、安達氏の血縁ではなかった) |
3/16 | 金沢貞顕、第15代執権就任 ※「金沢文庫」で有名な金沢実時の孫。 ※長崎高資の推挙で、北条邦時が成人するまでの「つなぎ」として擁立。 |
3/20 | 皇太子・邦良親王が27歳で死去 ※持明院統、大覚寺統ともに皇太子候補を推薦する ※後醍醐天皇もここぞとばかりに自分の息子(尊良親王)を推薦する ※幕府は持明院統の量仁親王(後伏見上皇皇子:のちの光厳天皇)を皇太子とした。 |
3/26 | 嘉暦の騒動(金沢貞顕、執権職を辞す) ※一度はやる気をみせていたが、北条泰家、安達時顕に暗殺されることを恐れ、執権を辞す。 |
4/24 | 赤橋(北条)守時、第16代執権に就任 ※北条泰家、安達時顕の恨みを恐れて誰もなりたがらなかった中、その家格の高さから引き受けることとなった。鎌倉幕府最後の執権。 ※妹・登子は足利尊氏の妻として知られる(当時尊氏21歳、登子20歳)。 |
4/26 | 嘉暦(かりゃく)に改元 ※疫病流行のため |
7/- | 安藤季長、捕縛 ※幕府から派遣された御内人・工藤貞祐が得宗家の人事に不満を抱いて反乱を起こしていた安藤季長を捕縛する。 ※しかし、季長の一族郎党が反乱を続ける。 |
内管領vs外戚、ってパターンは前もありましたよねー。
霜月騒動でしたっけ。
甥の邦良が死ぬとは、またとないチャンス…
これらの戦乱は連動してる、と考えるべきか、、
高時、泰家のおかん(大方殿)は泰家が執権になれなかったことを不服として、泰家を出家させるのです。
さらに、泰家派の武士たちも次々と「後追い出家」させて、鎌倉中が騒然となりました。
大覚寺統内部の争いですが、ダークホース的な存在で、亀山法皇が晩年につくった子も重要な候補者にあがっておりました。
つまり、
1)邦省親王(24歳、大覚寺統・後二条天皇の息子で邦良親王の弟)
2)恒明親王(23歳、大覚寺統・亀山天皇の晩年の息子で後宇多天皇の弟)
3)尊良親王(19歳、大覚寺統・後醍醐天皇息子)
4)量仁親王(14歳、持明院統・花園天皇の息子)
で争われたわけです。