~只今、全面改訂中~

☞【南北朝時代第3期⑲:1387年】『足利氏満vs小田五郎!』

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第3期⑲:1387年」です。

小山若犬丸の黒幕は小田孝朝、とのことで、氏満による小田征伐がはじまりました。

しかし、小田氏が黒幕などという決定的な証拠はないんですよね…

氏満は出仕中の小田孝朝を幽閉して、小田氏の拠点を攻撃します。

氏満は、小山氏に次ぐ勢力で重要な土地を抑えていた小田氏を潰しにかかったのではないかとも考えられ、小田孝朝も小山氏の次は自分であることを悟っていた、とも考えられます。

いずれにしても、小山孝朝不在で行われた足利氏満と、留守を預かっていた小山五郎の戦いは「小山孝朝の乱」と名つけられました。

至徳4年→嘉慶元年/元中4年(1387年)年表

5/13小山若犬丸の乱の黒幕が判明?

★鎌倉府の古河代官・野田等忠(のだひとただ)が、小山若犬丸の支持者を捕縛した。
★その「自白」によれば、常陸国南部を基盤とし、霞ヶ浦の富や常陸中央部に広大な所領を有していた小田孝朝が小山若犬丸を保護していた、と知らされる。
★小田孝朝は「小山義政の乱」の平定に協力したが報賞が少ないことに不満を持っていたともされるが、若犬丸を匿っていたという証拠は自白だけであり、実は氏満による小田氏征伐の「でっちあげ」の可能性もある。小田孝朝は氏満に普通に接していた。
★「小山義政の乱」で小山氏が潰されて、小田孝朝は次の狙いは自分であることを察知していた。そのためか、小山義政の赦免も求めていた。氏満も次の狙いは小田孝朝であることを隠すようなことはなく、近くの土地を上杉氏に与えるなど圧力をかけていた。
閏5/4島津氏久死去(59)

★これまで何度も悩まされた今川了俊にとっては九州統一の追い風
閏5/信濃の小笠原氏ら、守護斯波氏の軍勢と戦う

★1366年、信濃守護は小笠原長基から上杉朝房に代わられていたが、小笠原氏は信濃に一定の力を持っていたと思われる。しかし、1387年、今度は守護の座が斯波義種となると、善光寺平にて斯波氏と交戦している。
★ちなみに小笠原氏は祖父の貞宗の代から弓馬術に優れており、小笠原長基は足利義満の弓馬の先生役も務めていた。現代でも「小笠原流礼法」なる教えがある。
6/13足利氏満、鎌倉出仕中の小田孝朝親子を幽閉

※小田孝朝の父はかつては南朝として活動して北畠親房を迎え入れたことでも知られる小田治久。これには足利尊氏が常陸国守護に佐竹氏を指名したため対抗手段としてそうするしかなかったとも言われる。
※1341年以降は北朝として活動し、戦功をあげた小田孝朝は東国武士の中では珍しいくらい高い位階を得ることに成功していた。和歌の才能などもあり、京都ともつながりがあった。
7/19足利氏満、上杉朝宗を大将にして小田氏の小田城へ向かう【小田孝朝の乱】

★留守を預かっていた小田五郎は小田城で迎え撃つことの不利を悟り、男体城で迎え撃つことに決定。
★足利義満は開戦前の8月の時点で小田氏の赦免を求める文書を氏満に送っている。

※霞ヶ浦の富や常陸中央部に広大な所領を有し、かつ和歌などを通じて京都とつながりのある小田孝朝は氏満の削減対象となっていたと思われる。若犬丸の件も自白以外の証明はない。義満は小田孝朝の教養を惜しんでか、氏満の強権的な手法を警戒してか、孝朝の助命を求めてきた。

※この戦は小田孝朝は幽閉されていて参加していないにも関わらず、「小田孝朝の乱」と呼ばれます。
8/23元号が嘉慶(かきょう)に改元@北朝

★疫病による
12/25土岐頼康死去

★揖斐郡揖斐川町の瑞岩寺で死去。
★甥で養子でもあった康行が惣領を継ぐ。

【土岐頼康】(1318-1388)
数多の戦功をあげ、一時は美濃・尾張・伊勢の三カ国の守護となる。細川頼之とは犬猿の仲。死後、足利義満の陰謀により「土岐康行の乱」が誘発され、土岐氏は領国を大きく削られることとなる。
小田孝朝
氏満さまが私を黒幕だと?そっか…
足利氏満
小山の次は小田じゃ!え?理由?そんなもん知るかってんだ!
足利義満
氏満くん、騒乱を起こすのはたいがいにしろよ
足利氏満
はーい。おっけいでーす!(って、うるさいねん、このハゲがっ!!)
小田孝朝
私は氏満さまのもとに出仕しておりますし、耳に入っておるんですが…(汗)
小田五郎
とんだ留守番となってもうた!!