こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第3期㉑:1389年」です。

山名時義が死去します。
父の時氏、兄の師義のあとをついで、山名氏を全国の6分の1を支配する強大な氏族にまとめあげました。
しかし、息子の時熙が山名氏の惣領に就任すると、師義の三男で、義満に仕えていた満幸の不満が爆発します。
嘉慶3年→康応元年/元中6年(1389年)年表
| 2/9 | 北朝、康応に改元 ★前年に近衛兼嗣、二条良基と摂関が2代続いて死去したためと思われる |
| 2/18 | 康応の外寇 ★倭寇征伐を目的に高麗が対馬に侵攻 ★韓国の記載では高麗軍が勝利して以降、倭寇の数が減るとされているが、その後も倭寇は活動している ★韓国ではこれを「第1次対馬島征伐」といい、その後1396年、李成桂による「第2次対馬島征伐」(日本では記載がされていない)が行われ、1419年、「第3次対馬島征伐」(日本では「応永の外寇」として知られる)と続く。 |
| 3/7 | 細川頼之、義満を讃岐の宇多津で迎える ★細川頼之赦免の動き。 ★3/23には帰途の義満と再び会談。 |
| 4/3 | 細川頼之、足利義満の招きで上洛 ★かつて頼之を追い落とした斯波義将の政治的立場は微妙なものとなる。 |
| 5/4 | 山名時義死去 【山名時義】(1346-89) 山名時氏の五男。1376年、長兄である山名師義が死去した際、まだ幼く、病弱だった師義の長男・氏之に代わり山名氏の惣領となる。その後、山名氏は一族で全国66ある国のうち11カ国を占めたことから「六分の一殿」と呼ばれた。 ★一方、時義の惣領就任時には師義の三男である満幸および、時義の兄で満幸の義父である氏清が不満を持っていたとされ、その心理を利用して足利義満は山名氏を仲違いさせてその勢力を削ぐのである。 ★山名氏が勢力を伸ばすことができたのは南朝を抑え込むことができたのが山名氏しかいなかったためであるが(細川氏では無理であった)、そのような背景からか山名時義はたびたび足利義満の意に沿わず、義満も手を焼いていた。 |

わしはもうダメじゃ。家督は長男の時熙にするか。

満幸くん、君が本来、山名氏の惣領になるべきじゃないかな??男ならここは立ち上がるべきじゃないの??

そうです!ありがとうございます。義満さまに仕え、名前まで頂いた私ならもっと義満さまのお力になれるでしょう。義父にも相談します!

え!義満さまから時熙を討て、と?え、ついでに氏之も??でも、それって山名氏の得にはならないような…。そもそも、娘を嫁がせてるから時熙もワシの義理の息子なんじゃが…。

うーん…、戦乱は避けられなさそうな状況になってきたな…。なんとか山名の力を残したいが…、黒幕は細川か…?

時義が長くはないと聞いて、義満さまから相談がありましてん。結局、義満さまは私しか信用できないんだと思いますよ。