~只今、全面改訂中~

☞【世界恐慌真っ只中で行なわれた1932年大統領選】『シリーズ アメリカ合衆国史③20世紀アメリカの夢』(中野耕太郎、2019年、岩波新書)【第3章-3】

こんにちは。

さて、2020年の大統領選は大接戦となりましたが、

その88年前、恐慌真っ只中での、1932年の大統領選はアメリカ史上におけるターニングポイントでした。

厳密には1920年代ではありませんが、今回は「1932年の大統領選」を紹介したいと思います。

フーバーは絶対に負けると思って選挙運動もあまりやらなかったそうです・・・
フーヴァー
私が当選していれば日米の戦争は避けられたかも知れない・・・【知日派:コチラも

§3.去り行く平和

平和のイデオロギー

★1920年代の国際関係は「ウィルソン的」理想主義と大国支配の現実、戦後の国際秩序に不満を抱くナショナリズムがせめぎあう形で展開された。

★ただ、「平和」が前提であり、戦争を国際法上違法にしようとする動きも見られた

★1927年には3万通の署名がクーリッジ大統領に提出され、1928年のパリ不戦条約(ケロッグ=ブリアン協定)につながった

(この不戦条約には日本も調印している。)

★アメリカは国際連盟には加入しなかったが、文化交流を通じて平和の担い手となった。

平和の限界

1925年頃から中国の反帝国主義のナショナリズムが本格化。輸入品ボイコットや、不平等条約撤廃を掲げ、列強との争いが生じる。(5・30運動)

当たり前だけど日本だけが排斥の対象ではない。

★7月には反帝国主義運動を主導する中国国民党が広州に国民政府を樹立し、1926年には国家統一を目指す「北伐」を開始した。

★9カ国条約は多国間協調主義の原則があった。しかし、現実は中国ナショナリストと個別に交渉することが常となった。アメリカは国民党政府との協議の末、1928年に関税自主権を認める新協定を締結した。

★山東返還問題に不満を持っていた日本はこうした動きに反発。国民党との関係は悪化。1931年9月には満州事変勃発となる。

★欧州では戦後の国境変更で中・東欧に少数民族として残された「ドイツ人」から自決要求を受ける。

★民族自決の原則と自由貿易に基づくリベラルな多国間主義を整合的に両立させるのは非常に困難であった。

大恐慌

★1929年10月、大恐慌勃発。

★不況の最初の4年間でGDPは半減。失業者数は総労働人口の25%にあたる1300万人。毎年20万人が住居を失った

★農業の不況はさらに厳しかった。これは慢性的な生産過剰によるものと考えられる。

★1930年末から銀行恐慌となり、1931年には2300行が倒産した。

フーバーの不況対策

★フーバーの経済対策は彼の政治哲学とは大きくかけ離れ、ルーズベルトのニューディール政策に近いものであった。

★もう1つの特徴はその国際主義的なアプローチであろう。

★1931年6月、激化する金融恐慌への対策としてフーバー・モラトリアムを実施。国際債務の1年間の凍結を行なった。

★各国はすでにブロック経済に向かっていたが、それを阻止して経済を再活性化すべく選挙後のロンドン経済会議(1933年)開催に執念を燃やしていた。

(結局、ルーズベルトが出席してフーバーらの国際協調主義を否定)

★1932年7月の恩給軍人事件はフーバーの悪評を決定的なものにした。第1次大戦の退役軍人たちが恩給を前倒しで要求したが、議会はこれを否決。なおもキャンプ生活をしながら要求を続ける2000人の元兵士たちに軍隊を使って鎮圧した事件のことである。

(鎮圧側には連邦12歩兵連隊を率いるダグラス・マッカーサーもいた。)

★この恩給軍人事件の3ヵ月後がアメリカ大統領選。アメリカ史上のターニングポイント

★世界恐慌の絶望的な状況で、アメリカの政治エリートは何か有効な経済政策を打ち出せるか、アパシーと化した大衆はきちんと判断できるのだろうか、満州事変後の世界に新しい秩序を与えることは可能か、などいくつもの課題が存在した。

フーヴァー
フランクリン・ルーズベルト、やつは狂人だ。

 

しかし、ソ連のスパイが政権内部に潜り込んでいたことも問題だ。【コチラも:敗戦革命


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