~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「日中戦争第1ラウンド」についてです。

「盧溝橋事件を契機に日中戦争が勃発」と教科書では習います。

しかし、盧溝橋事件は「松井ー秦徳純協定」などにより一度、終息していたのです。

問題は、その後の「廊坊事件」「広安門事件」

これらで度重なる襲撃を受けた日本は新たに内地師団派兵を決意します。

その戦闘で勝利したため、和平がもたらされるはずでしたが・・・

以下、「満州建国の真実」「教養としての昭和史集中講義」などを参考にさせて頂きました。

【年表】日中戦争第1R(1937.7.7~8.9)

1937年日本中国
7.7盧溝橋事件(※1)盧溝橋事件(※1)
7.8石原莞爾(参謀本部作戦部長)と武藤章(参謀本部作戦課長)で激論(※2)中国共産党、中国全土に抗日即時開戦を呼びかける
7.9石原莞爾、事件不拡大を橋本群(支那駐屯軍参謀長)に下命中国共産党、各級幹部に抗日団体を組織することを指令

周恩来に促されて、蒋介石、軍6万人を北上させる
7.10拡大派の武藤章が石原莞爾を押し切ってない力の派兵も含む「北支派兵提案」を策定
7.11杉山元陸相、事件不拡大を香月清司(支那駐屯軍司令官)に指示

松井-秦徳純協定(※3)
松井太久郎(北京特務機関長)、秦徳純(第29軍副指令)と停戦協定締結

閣議で武藤章の北支派兵提案了承
周恩来、蒋介石を抗日全面戦争に説得
中国共産党が第一線に立つことを約束
7.13毛沢東、朱徳が蒋介石に即時開戦を迫る
7.15朱徳『抗日改選を実行せよ』という論文発表
7.17蒋介石、「最後の関頭」声明
7.18石原莞爾、近衛首相に和平提案具申宋哲元(第29群軍長)、香月清司を訪れ遺憾の意を表明。抗日団体取り締まりを約束。
7.21橋本群、参謀本部へ内地三個師団の北支派兵必要なしと報告、派兵見合わせ(※3)
7.23中国共産党、徹底抗日戦を強調
7.25「廊坊事件」(※4)「廊坊事件」(※4)
7.26「広安門事件」(※5)「広安門事件」(※5)
7.27近衛内閣、内地三個師団派兵。
30日までに北京・天津から抗日支那軍駆逐。
7.29通州事件
日本人が大虐殺される
8.9川越茂(駐華大使)と高宗武(国民政府外交部アジア局長)による和平会談(※6)

(※1)盧溝橋事件

支那駐屯軍第三大隊の第8中隊135人が演習場で夜間演習を終えた頃、支那軍(第29軍)の方向から十数発の実弾が打ち込まれてきました。

このため、第8中隊は後方に退却します。

そして、第三大隊500人が応援に駆けつけると、彼らにも支那軍が射撃をしました。

そのため、応戦して盧溝橋を占領した、というのが「盧溝橋事件」です。

(※ちなみにこの時、第三大隊長一木清直に反撃許可を与えた第1連隊長が牟田口廉也。)

(※第29軍の攻撃は中国共産党の謀略による説がある。)

【盧溝橋事件は柳条湖事件と何が違うのか?】

まず、場所が違います。

満州事変の原因となった柳条湖事件は満州、盧溝橋事件は北京郊外で起こっております。

【なぜ、北京郊外に日本軍がいるの?】

義和団事件(1900年)以来、北京に住む自国人を守るために各国とも支那駐屯軍がおかれました。

各国との足並みを揃えるためもあり、支那駐屯軍は規律正しい軍隊でした。

(※2)石原莞爾 vs 武藤章

日中戦争開始時は、「不拡大派」の石原 vs 「拡大派」の武藤、という図式がずっと続きます。

石原の言い分としましては、

「日支戦争に突入すれば底なし沼に嵌まる。」

というもの。

近衛首相も日支首脳会談に乗り気でしたが、蒋介石の「最後の関頭」声明で立ち消えになってしまいました。

蒋介石
我々は、最後の関頭に臨んだなら、全民族の生命を賭けて、国家の生存を求める!

(・・・って、なんか共産党のやつらに言わされているような気がするけど・・・)

コチラも:石原莞爾作戦部長は対ソに備えて日中協和を目指した

(※3)終わったはずの盧溝橋事件

7月11日の「松井ー秦徳純協定」による停戦、7月18日の宋哲元による謝罪、石原莞爾の説得で、盧溝橋事件は終息するはずでした。

しかし、宋哲元の軍規は乱れており、宋哲元の意に反してさらに日本を挑発。

蒋介石も徹底抗戦を呼びかけ、日本軍側も戦闘態勢となります。

(※4)廊坊事件

第29軍による違反行為の1つが「廊坊事件」。

これは北京~天津間の廊坊駅で、軍用電話線修理中の日本兵が支那兵から銃撃を喰らった事件です。

(※5)広安門事件

続いて日本軍一個大隊が在留邦人保護のため支那軍の事前了解を得てトラック27台を連ねて広安門から北京城内へ入城中、城壁上の支那兵が機関銃乱射および手榴弾投擲を行なった事件です。

この2つの事件で戦争拡大やむなしを思った軍人は多かったそうです。

(盧溝橋事件の前も小競り合いは頻発していたそうです。)

(※6)船津和平工作

廊坊事件、広安門事件を経て、内地三個師団(広島第5師団、熊本第6師団、姫路第10師団)が派兵されて北京・天津地区から抗日支那軍が駆逐されました。

広田弘毅外相はこれを和平の好機とみて、中国各地で領事の経験があり、国民党員からも信頼されていた外交官・船津辰一郎に和平を依頼。

8月9日、日支の和平交渉がスタートしました。

(おまけ)胡適の「日本切腹、中国介錯論」

前述の、加藤陽子先生が広く紹介したという胡適(当時:北京大学教授)の説。

この説を読んでから日中戦争を振り返ってみると、中国が計画通り日本を戦争に引きずり込んだ(そして、今も作戦通り罪悪感を与え続けている)とも解釈できるかと思うのですが、どうなんでしょう・・・。

【胡適(北京大学教授)の考え要約】

★世界の二大大国はアメリカとソ連になるだろう。しかし、まだアメリカ海軍もソ連陸軍も軍備が整っていない。日本はそのことをよく知っているので、軍備が整う前に中国に戦争を仕掛けてくるであろう。
★アメリカやソ連が日本の行動に抑制をかけてくるには、まず中国が正面から日本と戦ってニ、三年間負け続けること。これによって彼らが慌てて介入してくるであろう。

【詳しくはコチラ。】

こちらも勉強になります。盧溝橋事件は明らかに中国側が発端。

http://j-strategy.com/series/hm1/4786

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