
【第2章 まとめ】
★特攻作戦が開始したのは1944年10月25日。初期はそれなりに効果があったが、徐々に対策を立てられ、後期は成功率は低下。それでも特攻は続けられた。
★特攻は美化してはいけない。特攻は「志願」と言いつつ、強制であったが、海軍のエース菅野直、陸軍の佐々木友次など特攻を拒否した将兵もいる。
第2章:神風は吹いたのか?4000人が死んだ「特攻」
★1944年10月25日、レイテ沖海戦にて「神風特攻隊」作戦が開始。
「急降下爆撃」という戦術は以前からあったが、レイテ沖海戦での特攻隊の命中率27%というのは、決して高い数字ではない。
しかも、相手も学習能力があるため、沖縄戦期では7.9%まで低下。つらい真実である。
♨特攻第1号に選ばれた関行男大尉は出撃前、「通常攻撃でも爆弾を命中させる自信がある。そんな僕に体当たりを命じるなんて、日本は終わりだ」と慨嘆している。
★また、この作戦が実行された背景には熟練航空機搭乗員の減少がある。ゼロ戦は戦果をあげる一方、防弾性能が低く、損害も大きかった。
※百田先生の著作、「戦争と平和」にもこのあたりのことは詳しく書かれていたと思う。一方、【太平洋戦争の新常識】では、ゼロ戦の設計のすごさを絶賛。問題はゼロ戦の次のモデルを作ることができなかったことを問題として挙げる。)
★のち、練習機や偵察機など、低性能の機体も苦し紛れに投入された。それに爆弾を装着するため、当然、飛行性能は大幅に低下。
♨そんなんで特攻しろなんて、人命をバカにしている!
★桜花という飛行機は、航続距離が短く、母機が必要。しかし、母機は低速にならざるを得ず、最初の出撃舞台は全滅。(そもそも、海軍は特攻機として、資材と燃料の節約、熟練不要を要件としていた。)
桜花には連合軍からは「BAKA」というコードネームがつけられた。
★一方、米軍は最新のレーダーを使って、特攻を撃沈。一部の砲弾は「近接信管」を装備しており、信管が敵機を感知すると砲弾を破裂させるため、直撃する必要はなかった。
★特攻の無意味さは幹部らも把握していたが、それでも終戦まで続いた。
♨お役所的なバカとしか言いようがない。憤りすら覚える。美談どころではない。
★「大空のサムライ」坂井三郎も、特攻により士気は低下したと特攻を否定。
「海軍のエース」菅野直は、上官の特攻命令に対して「行く必要なし」と部下を押しとどめた。
陸軍の佐々木友次は特攻出撃したが生還。しかし、大本営は「戦死」と発表。以降、「特攻しろ」と参謀らに非難され続ける。(ひどいっ!!)「殺すことばかりを考えている」と上層部を批判した佐々木は、通常攻撃を続けて戦争を生き抜いたという。
♨先日、テレビでも取り上げられていた。特攻しなかったのは任務を果たせないと思ったから(正しい)。帰国後、殺害計画まであったとは。
<インタビュー:保阪正康(ノンフィクション作家)>
特攻70年「特攻は日本の恥部、美化は怖い」
★特攻機にのった人たちが機内でしゃべっていることは無線機で受け取れる。「大日本帝国バンザーイ」というのは、ほとんどなく、「海軍のバカヤロー」と叫ぶ者が後を絶たなかったという。しかし、これらの記録は故意に燃やされてしまったに違いない。
★日本の「職業軍人」とは何か。後に続くといって、実際に飛んだのは宇垣纒くらいか。海軍の福留繁、黒島亀人、陸軍の冨永恭次、菅原道大などは戦後を生き抜いた。
エリートは前線には行かず、戦争を美化する。ある陸大の学年は同期50人のうち、戦死したのは4人だけという。
★また、特攻は志願を建前とした強制。
★現在、集団的自衛権によって自衛隊が海外派兵する可能性が高まっている。今こそ、旧軍について十分に検証すべきであろう。そうでないと、特攻と言うシステムを採用するような組織が再び生まれてしまう。
<雑感>
★特攻についての記事を読むと怒りしか湧いて来ない。
職業柄、人1人の命を守るのに神経を使っているが、上層部のやっていることはその真逆。というか、この時期の上層部はホントひどい。
しかし、この問題は武士道の解釈含めて、根が深い。
♨一言で言うと、中世の武士であれば、「強制玉砕」含めてこんなバカなことはしない。→【武士の日本史はコチラ】。
そして、問題の根源をたどると、日露戦争の総括が「精神論で頑張った」ことになってしまったことでもあるのだ。→【必読!日露戦争の真実】