【第6章 まとめ】
★1945年6月23日、沖縄戦終結。
沖縄戦が行われた時期に日本は既に敗北必至状態。最後の一撃を加えて有利な条件で講和を目指したが、ろくな装備すらなかった。
★沖縄は「捨て石」と言う人もいるが、多くの日本国民は次は本土決戦と考えていたであろう。
第6章:沖縄は「捨て石」だったのか?本土決戦準備、近衛兵は芋を植えていた
★沖縄戦終結は6月23日。死亡した県民は4人に1人とも言われる。
★本土決戦に備えて新たに150万人を徴兵画策。しかし、主力軍ですら装備充足率が8割以下と定数に達しておらず、銃は持っていても弾薬がない状態であった。
★食料も不足。各部隊に自活のための食糧生産が指示された。飢えた顔で民家に立ち寄り食料をもらっていた。
★銃剣は旭川市電のレールを外して作成したものを使用。水筒は竹製。軍靴は不足し、草鞋の部隊もあった。
★制空権、制海権を失ったために中国、満州に駐屯していた主力の南方への配置転換は難航。兵力を集中できなかったうえに、大本営の作戦指導が現地軍の足を引っ張った。
山下大将はルソン島での決戦を計画していたが、直前の台湾沖航空戦を過大評価した大本営により覆された。【コチラも】
★また、これにより沖縄駐屯軍の精鋭部隊が手薄となった台湾へ移動。代わりの師団は海上輸送が危険との判断から派遣されず。
★3月から日本の海上交通は壊滅。ドイツは5月8日に降伏したが、日本も米の装備の前に5月にはお手上げであった。
(※日本は連合国軍に対して和平を提案していたが、半年に渡って拒否されていたとも。)
★陸海軍は本土決戦で打撃を与えれば、有利な条件で講和できると独善的に判断。人間爆弾「桜花」(コードネーム:BAKA)、人間魚雷「回天」、特攻艇「震洋」、潜水具「伏龍」からの自爆攻撃などが企図された。
★作家・司馬遼太郎は陸軍戦車将校として、避難民の交通整理をどうすれば良いか大本営に聞いたところ、「轢き殺せ」だったという。沖縄が特殊な状況だったわけではなく、本土も異常だった。
(※沖縄戦で日本軍はスパイ容疑で処刑、強姦、食糧略奪、追い出し、集団自決強要などを行ったという)
★男子学徒は軍人扱いの「鉄血勤皇隊」、女子学徒は軍属扱いの看護部隊「ひめゆり学徒隊」などとなって、米軍の猛攻撃(「鉄の暴風」)にさらされた。
<インタビュー:金子兜太(俳人)>
「国のために死んでいく制度は我慢できぬ」トラック島で「捨て石」体験
★帝国海軍主計将校として南洋トラック島で1年3ヶ月の捕虜生活を送る。
★軍隊は身分制の世界。上から将官、将校、下士官、兵卒、さらに募集・徴用で集められた民間の工員。
ある日、工作部が手榴弾を作成。実験に工員が選ばれる。
発火させた途端、手榴弾が爆発して工員の手は吹っ飛び、明らかに死んだ。
しかし、工員仲間が担ぎ上げて病院へ運んだ。
これを見て人間への意識が変わった。明らかに死んでいるのに仲間は放っておかない。それまで人生を甘く見ていた。
★暗くならないように句会などもやった。身分関係なく来てくれた上官もいた。
★皇軍に餓死は禁句。明らかな餓死でも「栄養失調による死亡」とされた。官僚組織とはひどい。
★トラック島でやったことといえば、食糧生産を試みるばかり。この時期、俳句など全くしなかった。
★米軍の収容所ではちゃんと食糧が与えられた。
★国のために働かされ、死んでいくという制度や秩序は我慢ならない。