~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「後朱雀天皇、後冷泉天皇時代」です。

この時代、「末法思想」の広がりとともに「藤原摂関家」時代は終焉を迎えました。

また、東北では「前九年の役(1051年~)」が行われました。

「九年」といいつつ、ほんとは「十二年」なんですがね。

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第69代:後朱雀天皇期(1036~1045年)

【後朱雀天皇】(1009-1045)

一条天皇の第3皇子、母は藤原道長娘の彰子。(つまり後一条天皇の同母弟)
両統迭立を考慮すると後一条天皇の次は三条天皇の息子が就くはずだったが、道長のプレッシャーにより辞退したことと兄が早世したことで後朱雀天皇が即位した。とはいえ、後朱雀天皇も37歳の若さで死去。

1037興福寺僧徒が東大寺東南院を焼く
藤原頼通養女嫄子が入内する(男児を産むことなく2年後病没)
石清水八幡宮の神人と争った但馬守源則理が土佐国に入る
1038明尊(※1)の天台座主補任を不満として、延暦寺僧徒が入京、強訴(※2)
1040国司らの奏上を受けて荘園停止令(長久の荘園整理令)(※3)
1042延暦寺僧徒が園城寺円満院を焼く
1045後朱雀天皇譲位、後朱雀天皇死去
寛徳の荘園整理令

(※1)明尊

三井寺(園城寺)の出身だから嫌われていた。

(ちなみに天台宗は山門派(円仁)と寺門派(円珍)で分裂したまま。)

「三跡」で知られる小野道風を祖父に持つ。

石ノ森章太郎「マンガ日本の歴史」12巻より。延暦寺僧徒たちが明尊就任に反対する様子。

(※2)寺社の台頭

石ノ森章太郎「マンガ日本の歴史」12巻より。国司の取立てに百姓たちが郡司のもとへ助けを乞う。郡司は寺社に保護を求めることを勧めるシーン。

(※3)荘園の乱立

寺社のみならず朝廷、摂関家なども荘園を競っていた。これは朝廷が自分自身の首を絞めるようである。国司たちが一致団結して荘園整理の法令発布を奏上した結果、荘園整理令が立て続けに発布。

石ノ森章太郎「マンガ日本の歴史」12巻より。藤原家から租を免除するように言われて、しょうがなく認めた国司の館にて。「朝廷は自分で自分の首をしめてるよ」という台詞が全てを物語る。最大の寄進先は天皇家であったのだ。

1040長久の荘園整理令後朱雀天皇
1045寛徳の荘園整理令後冷泉天皇
1065治暦の荘園整理令後冷泉天皇
1069延久の荘園整理令後三条天皇

※1107年の紀伊国の資料では半分以上がすでに荘園