第2章:天皇家と足利将軍家の邂逅ー南北朝時代前後
1)北朝の成立
倒幕の成功
★1324年、正中の変。後醍醐天皇と側近の日野資朝・日野俊基、武士の土岐頼兼らが倒幕計画。事前に漏れたため、日野資朝が佐渡に流罪。事なかれ主義的に後醍醐天皇への措置は穏便なものとなったが、1331年に再び倒幕計画。今度はさすがに隠岐へ配流されることとなったが、楠木正成、護良親王の奮闘に勇気づけられた後醍醐天皇は隠岐から脱出し、伯耆国の実力者であった名和長年のサポートを受けて脱出。
★時代の変革期にあって倒幕運動は次第に全国へ広がり、幕府は京都へ追討軍を送るがその重責を担った足利高氏が後醍醐側に寝返り、六波羅探題を攻撃し、関東では新田義貞が鎌倉を攻撃したため、六波羅探題も鎌倉幕府も一気に滅亡。無謀だった後醍醐天皇の倒幕計画は時代が味方して実現した。
後醍醐の過ち
★しかし、時代が味方したのはここまで。後醍醐の内裏造営政策強行は完全に裏目となる。さらに護良親王と足利高氏の対立が生じ、結果的に護良親王は捕らえられ鎌倉に護送され、足利直義の監視下に置かれることとなった。
後醍醐対尊氏
★発端は建武2年(1335年)7月の中先代の乱。挙兵した北条時行に敗れた足利直義は高氏に応援を依頼し、高氏は関東に下向。鎌倉を奪回したが、後醍醐天皇の帰京命令に対して、直義が反対。高氏は後醍醐と決別し、高氏は朝敵となった。
室津の軍議
★建武2年(1335年)12月、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞軍により足利直義は大敗。高氏が救援にかけつけて勝利(竹之下合戦)。1336年6月に京都へ侵攻するが、新田義貞軍が態勢を立て直して尊氏に挑み、今度は義貞が勝利。尊氏は撤退するのだが、今後の軍事展開を有利にする上での布石を打ちながらの撤退であった。その最たるものが室津の軍議。ここで、西国の防備と支配の基本方針が決定、のちの守護制度の基盤となる。その前に、元弘没収地返付令と呼ばれる、後醍醐天皇に召し上げられた所領を返付するので足利軍に味方せよ、という令も重要である。また、同時に天皇家対策として、持明院統を担ぎ出した。
足利家の立場
★ただ、足利家の立場は盤石であったわけではない。足利家は源義家の系統ではあるが、頼朝らと異なり、義家の庶子である義国の子孫であった。さらに、同等の貴種性をもった一族は他にも少なからず存在した(新田、仁木、細川、畠山、吉良、今川、斯波、渋川、一色)。
北朝の軍隊
★そのため、持明院統の担ぎ出しが足利家にとって自身の軍事行動を正当化するうえで重要となった。足利軍が軍事行動を起こす際には一定の法則があり、「治罰の綸旨」発給、「錦の御旗」付与、「御小袖(足利家に代々伝わる鎧)」着用が定型化。南北朝時代の長期化に伴い、足利軍は北朝の軍隊であることが社会的に定着していった。建武の新政の失策により持明院統が再浮上したのである。


2)正平の一統と伏見宮家
南朝浮上のメカニズム
★北朝と南朝の対決は、実質的には尊氏勝利で早々に決着がついたが、南朝は瀕死でありながら何度も復活した。これには仁木義長であったり、細川清氏であったり、北朝で失脚した武将が南朝に投降したことで息を吹き返したことによる。ちなみに南北朝統一後も「後南朝」と言われる勢力は時々幕府の手を煩わせた。1441年の嘉吉の乱、1443年の禁闕の変(三種の神器が盗まれた)では後南朝の関与が取り沙汰された。
正平の一統
★最も幕府にダメージを与えたのが正平の一統であろう。1349年、高師直との対立により降った足利直義、そして息を吹き返した足利直義に対抗すべく、足利尊氏自身が南朝に降ったのが正平の一統である。このとき、年号も南朝の「正平」が用いられ、三種の神器も南朝に移された。

北朝皇族の連行
★尊氏の南朝への投降は、直義を討つためのものであったので、その直義が討たれると崩壊する運命にあった。そして、観応3年閏2月、足利軍と南朝の和睦は破綻し、南朝は吉野に撤退した。問題はその際、北朝皇族が連れ去られたことだ。光厳上皇、光明上皇、崇光上皇(一統されるまでは天皇)、直仁親王(一統されるまでは皇太子)である。そこで幕府は迅速かつ強引に解決を図った。連れ去られなかった崇光上皇の弟を後光厳天皇として即位させたのだ。ここで、崇光上皇(兄)と後光厳天皇(弟)という2つの系統ができてしまった。
三上皇の復帰と長講堂領
★北朝皇族の軟禁には経済的負担も伴う。一方、北朝はすでに新しい天皇をつくったため、拉致された皇族らは不要である。人質としての価値がないと判断した南朝は1355年に光明上皇、1357年に残りの3人を帰京させた。これにより崇光上皇と後光厳天皇の関係は微妙なものとなる。財産は崇光上皇が多くもっていたため、強い発言力を有していたのである。

崇光・栄仁
★崇光上皇は自分こそ嫡流と考えていた。そこで1370年8月に後光厳天皇の譲位問題が発生すると、崇光は息子の栄仁(よしひと)の即位を主張した。しかし、幕府にとって崇光は過去の人であり、結果として幕府は後光厳の息子を即位させた。後円融天皇である。
★1382年に後円融天皇が退位し、その息子が後小松天皇として即位した際には、崇光上皇も悟ったのか意見表明はしなかった。
★さらに不遇だったのが栄仁であり、1398年に崇光上皇が崩御すると義満により所領を召し上げられ、後小松天皇の所管に移されてしまった。その後、伏見で隠棲同様の日々を過ごしたため、崇光院流は「伏見宮家」と称されるようになる。
貞成・彦仁
★栄仁の跡を継いだ嫡子・治仁王は短命であり、その後は弟の貞成(さだふさ)王が継承した。貞成も嫡流意識が強くエネルギッシュに、かつ飄々と長命の天寿を全うした。なお中世史研究者が貞成について詳しいのは彼が「看聞日記」という1416年から32年間におよぶ日記を書き続けていたからである。85歳で大往生。しかし彼の健康体質が幸いし、伏見宮家が再び即位するのである。
★1412年、後小松天皇は譲位して称光天皇が即位するが、称光天皇は皇子を残さぬまま1428年に早世。兄弟にも子がいなかったため、後光厳の血脈は途絶え、貞成の息子・彦仁が後小松上皇の猶子となって、後花園天皇として即位するのである。伏見宮家はもう1人の息子・貞常親王が継いだ。

3)光厳上皇の生涯と皇位観
光厳天皇の践祚
★1331年、元弘の変により光厳天皇が即位。ただ、三種の神器の譲渡を後醍醐が拒否したため、後伏見上皇の詔が践祚の正当性となった。
第一の地獄変
★光厳天皇は「地獄を2度見た天皇」と称されている。第1の地獄変は鎌倉幕府の滅亡である。光厳は主要皇族とともに京都から近江に向かうが、近江番場で後醍醐勢力に追い詰められた北条勢力が「もはやこれまで」と集団自害した。その場を光厳は見ていたのである。後醍醐天皇即位後は光厳天皇は即位などなかったことにされてしまった。
第二の地獄変
★次は吉野へ連れ去られての軟禁生活。地天の君の地位を失った上に、身の回りの世話をする女房は南朝の経済事情から1人だけ。晩年、ほぼ1人暮らしできたのはここでハウツーを身に着けたからであろうか。
崇光院流への思い
★光厳上皇は軟禁中に何をしていたかというと、琵琶を弾いていた。単に音楽という意味ではなく、持明院統=琵琶であるため、政治的な意味合いである。琵琶の最秘局である「啄木」を伝受した(1339年)あとは、教える方となり、せっせと崇光上皇に教えていた。そして1356年、秘曲伝受が完了すると、その半年後に出家し法皇となった。光厳は崇光上皇こそ嫡流という認識で最後までいて、後光厳のことを後継者とすることは一切なく、琵琶、所領、文書などすべて崇光上皇の系統に留め置いた。光厳上皇と後光厳上皇の関係は冷え切った。
花園天皇との関係
★光厳天皇の叔父であり、持明院統の花園天皇は歴代天皇の中でも稀に見るほど真摯に学芸を修めた天皇でもあった。後醍醐に譲位したあとは、兄・後伏見上皇からの依頼で、量仁(光厳天皇)の教育を依頼された。もちろん琵琶も教わっている。
直仁への禅譲意思
★康永2年(1343年)4月、光厳上皇は興仁親王(崇光天皇)に遺書を残した。その内容は、なかなか衝撃的で、「皇位や所領は自らの子孫が継承するのは崇光天皇までで、その後は花園上皇の嫡子である直仁に継承させ、花園の系統に戻しなさい」ということであった。これは直仁が実は隠し子だったんじゃないか説や、母系を通じて尊氏と遠い姻戚関係があるからじゃないか、という説もある。

4)光厳上皇と足利直義
康永三年の天龍寺御幸
★天龍寺は形式としては、尊氏の奏上をうけた光厳上皇が院宣を発給したことで造営が決定したもので、責任主体は北朝天皇家であった。それゆえ光厳上皇はしばしば天龍寺に御幸した。1334年にも9月16日に御所を出発したが、このとき、前日から付き添っていたのが足利直義である。
直義の任参議と光厳院
★そして、1344年9月22日、直義は昇進。直義は断っていたが、ポジションニングは公卿そのものであったため、周囲としては役職が必要であった。
擾乱中の直義と光厳院
★要するに光厳院と直義はウマがあった。観応の擾乱で直義が入京した際は、洞院公賢が躊躇する間にフライング気味に祝福の賀使を派遣した。
土岐頼遠事件
★光厳上皇に土岐頼遠が矢をかけた有名な事件では、夢窓疎石を介しての命乞いもむなしく斬首されたのは、当時、直義が決定権を握っていたからであろう。
宝剣説話と直義
★1342年、土岐頼遠事件の直前に直義は瀕死の病に陥っていた。それを聞いた光厳上皇は願文をしたためて、石清水八幡宮に勅使を派遣。勅使がそれを読み上げると、石清水の神殿が鳴動して、直義の病が治った。これを太平記は「君臣合体」と呼んでいるが、直義が政治的に天皇家を救い、天皇家が宗教的霊力によって直義を救った、ということであろう。
光厳院の宿意と直義の協力
★光明天皇から崇光天皇への譲位、直仁の立太子は直義、光厳、花園の3者の話し合いで行われた。1348年8月28日、および1348年9月5日の会議を経て、1348年10月27日に実現した。君臣合体の関係である。


