第4章:天皇家を支える将軍たちー室町時代中期
1)「王家」の執事
義持による丸抱え
★この時代は足利将軍の天皇家に対する行動様式は定式化していた。義持は摂関や蔵人や東宮府が行うような仕事を行っており、言うならば「天皇家の輔弼役」であった。天皇だけでなく、皇子たちも補佐しており、教育係も行っていた。
称光天皇と小川宮
★後小松王家の男子はキャラクターが濃い。
★第1皇子称光天皇:病弱。若いうちから何度も危篤に陥り、周囲が喪の準備をすると復活するということを繰り返していた。精神状態も不安定。
※1425年4月の正親町三条実雅謹慎事件:称光天皇妻の大納言典侍が酒宴で引き揚げた際、実雅が心配で様子を見に行ったが、称光天皇がそれを怪しみ、証拠もないのに謹慎を言い渡す。
★第2皇子小川宮:プレゼントされた子羊にいきなり暴行を加える。1420年正月の席でいきなり妹に暴行を加える。やはり精神不安定。22歳で突然苦しみだし、そのまま逝去。
後小松と義持の共通点
★どちらも波乱万丈な一家。息子が病弱で、義持の子、義量は19歳で死亡。小川宮死亡の10日後のことであったため、天下大乱の予兆とされた。謀殺同然の死に方をした義嗣(義持弟で義満から愛される)の怨霊説も。
称光の体調
★1418年7月、称光天皇が危篤に。義持も参内。しかし、再び持ち直す。しかし、その7年後の1425年7月、夜中に発作を起こしてあちこちを走り回り気絶。義持は参内し、義持が連れてきた医者・寿阿弥が治療にあたる。そしてまた持ち直す。
彦仁の浮上
★称光天皇は子どもがいなかったため、1422年頃から義持と後小松は頻繁に会談。伏見宮の貞成親王の長男・彦仁を猶子とするして天皇にさせることが既定路線となる。
彦仁の登極
★1428年7月、称光天皇崩御。正月には義持もあっけなく死んでいた。8月には後南朝の小倉宮(後亀山の孫)が北畠満雅のもとに身を寄せて、最後のチャンスとばかりに満雅が兵をあげる。義教は一刻も早い鎮静を目指す。彦仁は1429年12月27日に即位儀。後花園天皇となる。
2)後小松「王家」と義持
王家の親子喧嘩
★後小松上皇と称光天皇の親子喧嘩。1425年6月27日に言い伝えられたこと。称光天皇が琵琶法師を内裏に招いて平家物語を弾いてもらいたいと言ったところ、後小松上皇は先例がないのでよろしくない、と答える。すると称光天皇は逆上して、自分だって上皇として先例のないことやってるじゃん!卑しい身分のものを招いたり!と。ご立派な上皇様ですらそうなんだから私が先例を守れるわけがないじゃないですか!ここは許可して欲しい、それがだめなら父上も先例違反をやめてほしい、と万里小路時房に。おまけに書状を書いて、「私は帝位などつきたくない、宮中も窮乏してるし、国のためにやめようと思う」とあるので、公家たちは「なんてことだ」と頭を悩ます。
親子喧嘩の落着
★28日。称光天皇は内裏を飛び出したところ、義持が後小松上皇から相談を受けて説得にかかる。義持はメッセンジャーの役割を果たして間を取り持つ。どうも、彦仁が皇太子になったことに不満をいだいていたようだ。
義持の役割
★説得したわけではなく、王家の執事。
妻を寝取られる父子
★1418年7月、称光天皇女房の新内侍が懐妊したが、称光天皇は断じて自分の子じゃないと主張した。新内侍が伏見に滞在した時期があったことから貞成親王の子であると疑ったのだ。貞成としては神頼みをもって無実を訴えるしかなかった。やがて真犯人が見つかる。中御門松木宗量が不義を行っており、貞成親王に罪をなすりつけようとしていたのだ。(ちなみに宗量は後小松上皇の妻にも手を出している)
繰り返される密通騒動
★称光天皇の内裏も後小松上皇の仙洞御所もスキャンダルだらけ。
義教の時代にも
★風紀の乱れは義教の代でも改善されず。そこで義教は男女の部屋を分けるべく、1432年10月、仙洞御所は増築工事が開始された。
3)後小松法皇と義教
義教嗣立と後小松
★義教嗣立は足利将軍家家長となったタイミング。還俗してから髪が伸びるまで時間がかかったため、将軍になるまでは時間がかかった。後小松は義教を好意的に受け止め、協力的となる。
後小松からのラブコール
★後小松は義教嗣立直後から猿楽や舞御覧に誘い、関係を築こうとする。ただ、還俗したばかりの義教はどう接して良いものかわからなかった。
後小松の意図
★後小松は義持と同じような振る舞いを義教に求めていた。つまり依存である。
義教と後小松のすれ違い
★しかし、両者は噛み合わなかった。総じて義教が後小松に遠慮しすぎ。
義教の苛立ち
★後小松は義教の院参前に出家を希望。義教としては自身の通過儀礼を待って欲しかったが無頓着。余計な仕事が増えて苛立ちを隠せず。
後小松の遺詔
★後小松崩御に際して、猶子である後花園天皇が喪に服すことに疑問をもっていて、崇光院流出身の後花園に肩入れするかのような発言。
4)伏見宮家と義教ー義教の視点から
後花園の即位
★義教は後花園天皇(1419-1471)の式典に熱心に関与。後見人を自認。
♨後小松上皇は1377年生まれで1394年生まれの義教よりも17歳年上。そりゃ、義教もやりにくかったであろう。貞成親王は1372年生まれでさらに年上。
後花園の元服
★義教は理髪役という重要な役割を担う。
義教の献身
★1434年、後花園天皇が腹痛に悩まされた際は義教が献身的にお見舞い。
御禊行幸での出逢い
★後小松上皇とは相性悪かった分、貞成親王には積極的。
初対面直後の二人
★初対面のあと、義教は軽くストーカー的。貞成邸を訪れると言って、準備させた。貞成にとってはまあまあ迷惑。
伏見宮家への思い
★貞成の女児たちも義教は面倒を見た。彼女らは義教の猶子となって寺院などに入室。後花園の父親は後小松ではなく、貞成という既成事実を積み重ねたかのよう。