~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「740年、藤原広嗣の乱」です。

『古代史講義戦乱篇』(九州歴史資料館学芸員、松川博一先生)を参考にさせて頂きました。

式家の御曹司であった藤原広嗣は吉備真備、玄昉の登用に不満を持ち、「上表文」を書きました。

しかし、これを「反乱」とみなされてしまい、戦争に突入します。

広嗣は敗れましたが、「大宰府常備軍」と「郡司層」が広嗣の味方となったことはポイントの1つです。

一方、聖武天皇は乱の途中から彷徨い続け、遷都も開始。

莫大な財政負担を及ぼすこととなりました。

ちなみに大宰府再設置と聖武天皇が平城京に戻った時期は一緒。

※同じ藤原の乱でも藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱と混同しないこと!!

①藤原広嗣という人物
②「藤原広嗣の乱」の経過と時代背景
③大宰府

①藤原広嗣(715~740)という人物

藤原広嗣。写真はwikipediaより。

父:藤原宇合(うまかい:694-737)

【藤原広嗣の父:宇合】
★式家の祖である。藤原不比等三男。

★政治のみならず、外交・軍事においても活躍。
★前例を嫌い、現状に即した施策を実施。

 
遣唐使でもあるね。
717若くして遣唐副使に抜擢。吉備真備、玄昉と一緒に唐へ。
724蝦夷の反乱で東北に遠征し、活躍する。
729長屋王の変では六衛府を率いて長屋王の邸宅を取り囲む。
732対外防衛のために置かれた節度使として最前線の西海道へ。
737大宰府管内から全国へ大流行した天然痘で死亡。44歳。

藤原広嗣の評判

「しきりに親族をおとしめるようなことを言って一族の和を乱すので、遠く西海の血に左遷することで改心させたかった

藤原広嗣追討時の聖武天皇

★とはいえ、これは乱を起こしたときの宣旨であり、鵜呑みにはできない。

738年、広嗣は大宰府の次官として九州への赴任が決定。大宰府といえば、菅原道真の件から左遷先と思われがちであるが、大宰府事態は西海道の総官、対外防衛、外交の窓口という重要な任務を担っていた。また、父親ゆかりの地であり、決して左遷ではない。

※ちなみに弟には光仁天皇、桓武天皇擁立で暗躍した藤原百川ら。弟の1人である藤原綱手は共に九州で戦って死んだ。

②「藤原広嗣の乱」の経過と時代背景

737年新羅が常礼を逸したとしてその理由を問う使節を派遣すべきか、出兵して征討すべきか朝廷内で議論されていた。
738年藤原広嗣、大宰府次官として九州へ赴任
740年8月29日広嗣、「時政の得失」と「天地の災異」について述べた上表文を中央政府に提出。(当時の政府は橘諸兄が中心で、藤原家は勢力後退)

天変地異の原因は吉備真備、玄昉による悪政としたが、これは当時の刑法である律に照らせば、天皇批判であり、斬刑に値した。
740年9月3日聖武天皇はただちに反乱と判断し、広嗣討伐へ準備開始。

★大将軍:大野東人、副将軍:紀飯麻呂
740年10月23日藤原広嗣捕縛
740年11月1日藤原広嗣処刑
740年12月★聖武天皇、恭仁京遷都。
742年1月乱の本拠となった大宰府は廃止。

※聖武天皇、この年に紫香楽宮を造営する
743年12月鎮西府設置
744年2月★聖武天皇、難波に遷都
745年6月大宰府復置。鎮西府の軍事的機能を受け継ぐ。

★聖武天皇、1月に紫香楽遷都するも、6月、結局、平城京に戻る。

聖武天皇の遷都は藤原広嗣の「怨霊」を恐れたためと考えられています。

③大宰府

★1万近い反乱軍の主力となったのは「大宰府常備軍」であったと考えられている。

★大宰府と西海道諸国の郡司層との関係も密接であったと考えられる。乱の記事には国司が登場せず、大宰府の官人と郡司層のみが見える。

★742年、乱の本拠となった大宰府は廃止。それまで大宰府に納められて管理されていたものは筑前国府が担うこととなった。

★743年、鎮西府が新たに置かれる。大宰府常備軍の再編成と考えられる。

★745年6月、大宰府再置。鎮西府の軍事的機能を受け継ぐ。

★聖武天皇の彷徨の主因は藤原広嗣の乱であったが、奇しくも聖武天皇が平城京に戻ったのと、大宰府が再設置されたのは同時期であった。

聖武天皇についてはコチラ

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