こんにちは。
「室町時代」って地味だよね~なんて、どこの誰が言っているのでしょうか。
「室町時代」ほどエキサイティングな時代もありません。
以下、「室町時代」の猛者たちで打線を組んでみました。
超強力打線と軍神ストッパーが売りですが、
うんざりするほど「まとまらない」のが弱点でしょうか。
1右 脇屋義助 331.22HR
2中 山名宗全347.28HR
3左 島津氏久333.25HR
4三 足利尊氏388.50HR
5遊 足利直義340.7HR
6一 足利義教166.66HR
7DH 朝倉孝景 375.41HR
8捕 楠木正成330.33HR
9二 畠山満家320.10HR
先発:護良親王 21勝13敗2.50
中継ぎ:細川頼之 10勝3敗1.50
抑え:上杉謙信 15勝0敗0.00
1右【脇屋義助】
写真はwikipediaより
群馬県民にとって、「れ」と言えば、「歴史に名高い 新田義貞」。
しかし、新田義貞に「脇屋義助」という弟がいて、鎌倉幕府倒幕時はもちろん、兄が「藤島の戦」で死んだ後も城を奪い返すほど奮戦したことはあまり知られていないでしょう。
「太平記」での登場回数は第9位。「歴史に名高い 新田義貞」&「(強いけど)歴史に名高くない 脇屋義助」とセットで覚えて下さい。
※Yahoo!地図より。群馬県太田市。新田と脇屋が並んでいる。
2中【山名宗全】
写真はwikipediaより
実はこの人のルーツも群馬。
※wikipediaより。 高崎の南方に「山名」という地名がある。写真は「山名」駅。
「山名時氏」がこの田舎を離れ、足利兄弟たちと一緒に転戦を繰り返しました。
のちに山名一族は「6分の1殿」(全国66か国のうち11か国の守護であった)と呼ばれるほど権勢を誇るまで成長しましたが、
直義党であったために基本的に外様となってしまいます。
よって、勢力の割にはいつまでも管領職などの主流にはなれなかったので、宗全の代で仕掛けたのが「応仁の乱」というような見方がされております。
3左【島津氏久】
九州の人に話すと、さも当然の知識のように言われて逆に驚いたのですが、薩摩藩で有名な「島津家」は少なくとも室町初期から既に相当強かったのです。
(島津家が現代の皇室までつながっていると知るとさらに感嘆)
今川了俊との戦いの時に用いた氏久の「偽装降参」などの数々の計略は見事としか言いようがないです。
もし彼が昭和期に甦ったとすれば、「玉砕せよ」などとは絶対に言わなかったでしょう。
4三【足利尊氏】
写真はwikipediaより。今まで平重盛と思われていた人物は足利尊氏の可能性が。(そして足利尊氏と思われていたのは高師直の可能性が。)
4番はこの人しかいないでしょう。南朝史観の影響で評価が不当に低い時期もありましたが、なんせ戦に強い。
ただ、細かいことは苦手なようで、気前良く土地をあげすぎたのは室町幕府崩壊の遠因となります。
ほか、一時期、南朝に降参してしまったり、すぐ出家・自害したがったり、猿楽にハマったり、ちょっと困った人でもありました。
それらを含めて「魅力」なのかも知れませんが、「本人」にとって一番困っていることは、自分ではない絵が長らく「足利尊氏」として伝わってしまっていたことでしょうか。
かつて共に戦った弟の直義との戦いは「日本史史上最大の兄弟げんか(観応の擾乱)」でしょうかね。
(※頼朝、義経は血のつながりがあるとはいえ、一緒に暮らしていたわけではないのですが、この尊氏、直義は年も近く、一緒に暮らしていました。)
5遊【足利直義】
写真はwikipediaより。これって、源頼朝じゃないの??と思った人は、甘い。たしかに尊氏に似ている気もする。
実直で処理能力の高い弟。
4番サードの兄のフォローということで、5番ショートをお願いしました。
地方武士の多くは彼についていました。
そのために、尊氏の一家臣に過ぎない高師直は、寺社の所領に手を付けるなど少々手荒なことをしないと部下が増えないという背景がありました。
よって、両者が反目し、「観応の擾乱」勃発につながります。
「中先代の乱」では敗北のどさくさに紛れて護良親王を殺害したのは隠れたファインプレー。
6一【足利義教】
日本史史上唯一、「くじ引き」で選ばれた6代目将軍。別名、「くじ将軍」。
「万人恐怖」を生み出しました。
「嘉吉の乱」という日本史史上でも指折りの劇画チックな暗殺により命を落としましたが、
足利義満でもできなかった九州を平定し、さらに鎌倉公方(足利持氏)もやっつけて全国を手中におさめました。
(さらに信長に先立って延暦寺も焼きました。)
もし彼が長期政権を築いていれば、足利幕府は「強い」幕府になっていたと言われています。
7DH【朝倉孝景】
写真はwikipediaより
応仁の乱の「勝者」は誰かというと「朝倉孝景」を推す人も多いです。
その鬼のような武力によって、西軍の主力として活躍しながらも、越前守護職を条件に(結局その場では果たされず)東軍に寝返ったことで東軍は息を吹き返しました。
応仁の乱はざっくり言うと、
「東軍優勢」→「大内正弘上京」→「西軍優勢」→「朝倉孝景寝返り」→「東軍優勢」→「しかし終わらず」。
「城攻めの日時を占いなどで決めるなどもっての他」など、孝景の教えには現代でも通用するものが多々あります。 (朝倉孝景条々)
8捕【楠木正成】
wikipediaより写真引用
彼を崇める人は戦前まで非常に多かったのですが、はたしてどこまで彼の本質を知っていたのでしょうか。
「湊川の戦い」は美談にされがちですが、「補給路を断たれてやむなく戦った」という方が正解のようであり、それが示すように彼自身はリアリストです。
(忠君愛国ではない。)
尊氏が九州方面から攻め込んできたときは徹底抗戦を主張する後醍醐天皇に和睦を勧めていますしね。
ちなみに、のちに「南北和睦派」であった息子の正儀は南朝での居場所を失い北朝に寝返った時期があったことから、歴史から抹殺されていた時期もあります。
9二【畠山満家】
足利義教も彼の存命中はうまく抑制が効いていました。
管領と言うのは将軍と守護大名の間で板ばさみにあうこともありますが、彼の管領時代は遠国放任策によって、室町時代において最も安定していました。
不用意に首を突っ込むことの怖さ、完璧な平和を追い求めることの怖さを知っていたからこそできたワザでしょうか。
満家の子、持国が後継者を決めないまま没したところに、細川家が畠山家弱体化を狙って介入してきて、畠山義就と畠山政長の争いに発展したことが、応仁の乱の一因でもあります。
先発【護良親王】
wikipediaより写真引用
後醍醐天皇が討幕を決意したにせよ、実際に檄をとばして最前線で戦ったのが彼。彼なくしては鎌倉幕府倒幕はなかったということで先発投手に任命しました。
ただ、後醍醐天皇との親子関係は「微妙」で、足利尊氏との関係は「ライバル」。
尊氏が護良親王を讒言したことで鎌倉に幽閉されてしまいましたが、この時の「尊氏より主上の仕打ちが憎い」というセリフは有名です。
後醍醐天皇にとっても阿野廉子との子を跡継ぎにしたかったので尊氏の讒言は「渡りに船」。
悲劇の皇子でもあります。
中継【細川頼之】
wikipediaより写真引用
当初、中継ぎには足利義満を入れる予定でした。
しかし、義詮が38歳で死亡し、義満が10歳という危機的な状況を救い、足利家の礎を築いた実績を評価して細川頼之をセットアッパーに指名しました。
「康暦の政変」で失脚したとは言っても、再び中枢に返り咲き、南北朝合一に向けて取り組むなどの実績も残します。
抑【上杉謙信】
wikipediaより写真引用
上杉謙信、そりゃ戦国時代だろっ!!と言うかも知れませんが、上杉謙信はれっきとした「室町時代人」でしょう。
というのも、彼は有名無実化していたとはい「関東管領」であることを誇りに思っていて、天下統一は目指していなかったのです。
(関東管領は尊氏・直義の従兄弟の上杉憲顕にはじまり、「足利学校」を再興し、「永享の乱」では足利持氏を倒した上杉憲実などを輩出。)
さらに謙信は毘沙門天の生まれ変わりであり、「鉄砲は狙っても当たらない」し、「戦場では絶対に死なない」。
野球で例えれば防御率0.00。こんなストッパー適任の人物はいないでしょう。