こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「1935年」についてです。
昭和の「曲がり角」は「1935年」だったんじゃないか、と思います。
「ナチスの再軍備宣言」(3月)、「天皇機関説事件」(4月)、「華北分離工作」(6月)、「相沢事件」(8月)…
以下、「日本人はなぜ戦争へと向かったのか(外交・陸軍編)」の、「1930年代 日本を支配した空気」(井上寿一先生)、「戦争とファシズムの時代へ」第4章第2項「孤立外交へ」などを参考にさせて頂きました。
【1935年分岐点説】
1933年5月の日中停戦協定で満州事変は区切りがつきました。
本来なら、ここから新たな道を行くべきだったのですが、やはり政党が「しっかりしていなかった」ことは問題だったでしょう。
(岡田啓介首相は自分の次の政権は政党内閣と考えていたようです。)
その時期、何をやっていたのかと言いますと、「天皇機関説事件」や「華北分離工作」…。
「天皇機関説事件」につきましてはコチラを。
天皇機関説問題で岡田内閣が動揺しているのを見透かすように、「華北分離工作」が行われました。
「華北分離工作」
武藤章が立案。河北地帯から国民党勢力、排日運動を一掃し、日本の勢力下におさめようとした。石原莞爾の制止も聞かず。
【⇒武藤章】
長城でとどまっていれば良いものの、長城以南に手を出した。大変になりそうなことを「わざわざ」やった。
→おかげで蒋介石の国共合作につながる。もちろん敵は日本。
1935年の蒋介石は、「満州のことは問わない」とまで譲歩しておりました。
ですので、ここで彼らと経済提携していれば良かったかも知れません。
しかし、外務省の中にも、「逆に強気に出ても良いだろう」と思った人もいたとのこと。
外交の場面では、譲歩には譲歩で応じるべきですが…。
【年表】華北分離工作
1935.06 | 「梅津・何王欽協定」 何王欽は「排日禁止命令」発布を余儀なくされる。 |
1935.06 | 「土肥原・秦徳純協定」 万里の頂上北側に布陣する第29軍の撤退、国民党など排日機関の解散撤退、宋哲元の謝罪などを認めさせ、飛行場や無線電信なども設置合意。関東軍は内モンゴルに進出する足場を築いた。 →これらにより国民党勢力を河北省、チャハル省より排除。 ※この時期、中国では従来の11の民間銀行券を法幣に統一する法幣改革が進められていた。イギリスからは日本も協力するように勧められていたが、日本政府はこれを拒否。結果として国民政府の経済的支配力が強化されるという失態を犯していた。 (満州を潤すためにも協力すれば良かった?) |
1935.11.25 | 「冀東防共自治委員会」設立 国民政府の経済圏から切り離す目的 |
1935.12.25 | 「冀東防共自治政府」と改称 日本の傀儡政権。日本―満州―中国で低関税貿易(密貿易)を行い、抗日運動激化。欧米の反発も招く。 ※これらの動きはソ連に対する警戒の高まりによるものでもある。 |
中国に深入りするべきではない。
こうした世界史的な動きと華北分離工作も無関係ではないだろう。
やはり1935年は分岐点だ。
【永田鉄山】
一軍事課長でありながら参謀本部と陸軍省の部長や局長クラスの合同会議にも準局長待遇で参加。参謀総長や陸相などのエリートも彼のシナリオに従わざるを得ないほど合理的に満州事変を成功に導いた。彼の死後、武藤章らは永田の後継者を自任して政治に介入を試みるが、永田ほどの合理性を伴わなかった。