昭和史講義
『§10.ノモンハン事件・日ソ中立条約』(花田智之先生)
【これまでの理解】
★1939年、国境線をめぐって日本とソ連が紛争。国境線は変更することができなかったという点で、ソ連の勝利。これまで日本の被害が大きかったことが伝えられてきたが、ソ連も大きな被害を被っていたことがわかっている。日本軍を指揮した服部卓四郎、辻政信はその後、太平洋戦争を指揮することになる。
【まとめ】
★1939年5月、国境線をめぐってノモンハン事件勃発。日本、ソ連とも大きな損害を被る。
★ソ連はノモンハン事件があったからこそ、独ソ不可侵条約(1939年8月)を結んだ。
★「独ソ不可侵条約」は日本の外交方針を大きく変える。
★「欧州情勢は複雑怪奇」と退陣した平沼騏一郎に代わって総理大臣となった阿部信行は、第2次世界大戦勃発に対して不介入、ソ連とは国交調整を行う方針とした。
★第2次近衛内閣における松岡洋右外相は日独伊三国同盟(1940年9月)にソ連を加えた四国協商実現を試みていた。
★しかし、独ソの交渉は決裂。日ソ中立条約(1941年4月)は結んだものの、独ソ開戦(1941年6月)となり四国協商は幻に終わる。
【関連年表】
1931年12月 | ソ連から「日ソ不可侵条約」の締結が提議 |
1932年12月 | 「日ソ不可侵条約」はパリ不戦条約に入っているので不要と回答。 |
1935年7月 | 第7回コミンテルン大会で「反ファシズム」掲げる。 |
1936年11月 | 日独防共協定 |
1937年8月 | 中ソ不可侵条約 |
1939年3月 | 第18回共産党大会でファシズムに対する英米仏の不干渉政策を非難。 |
1939年5月 | ノモンハン事件(ハルハ河戦争)。(~9月まで) |
1939年8月 | 独ソ不可侵条約。 |
1939年9月 | 第2次世界大戦勃発。 |
1939年12月 | 阿部信行内閣、「対外施策方針要綱」で日ソ国交平静化を掲げる。 |
1940年1月 | 米内光政内閣でも親ソ路線継続。 |
1940年6月 | ドイツ軍によりパリ陥落。 |
1940年7月 | 「日独伊三国提携強化案」。第2次近衛内閣成立。 |
1940年9月 | 日独伊三国同盟締結。 |
1940年11月 | 独ソ間の交渉が決裂したため(日本は知らない?)、四国協商は幻に終わる。 |
1941年2月 | 「対独伊蘇交渉案要綱」 |
1941年4月 | 日ソ中立条約 |
1941年6月 | 独ソ戦【コチラも】で、四国協商は完全に幻に。 |
【満ソ国境紛争】
★1932年~1934年までに152回、1935年に176回、1936年に152回、1937年に113回、1938年に166回、1939年に159回も満ソ国境紛争が起きていると記録されている。
♨すげぇ多い・・・
【仮想敵国としてのソ連】
★1936年の国防方針として仮想敵国は米国とソ連とされた。
★1938年夏頃から日独伊三国防共協定を軍事同盟に強化する動きが生まれた。
★日本国内では陸海軍が戦略方針をめぐって対立した。
【1930年代のソ連】
★ソ連の対日強硬姿勢が確立していく時期である。
★満州国に対して警戒。極東軍を強化。
★1936年の反共協定に対して、中華民国、モンゴル人民共和国との軍事同盟を締結した。
★1937年8月、中ソ不可侵条約では、ソ連から中国への航空機支援、武器提供を明文化した。
【幻の日ソ不可侵条約】
★第2次5カ年計画中。
★1931年12月、ソ連側から日本に日ソ不可侵条約を提議された【→昭和陸軍の軌跡】。
★日本は1年回答せず、1932年12月になって、「パリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)に参加しているので改めて二国間条約を結ぶ必要はない」と拒否した。
【第1次ノモンハン事件】
★満蒙国境を日本とソ連はそれぞれ異なる認識をしていた。
★モンゴル軍騎兵隊が何度も越境するため、満州国軍国境警備隊が対応。
★ソ連はソ連で日満軍がモンゴルへ組織的に国境侵犯しているとの認識があった。
★5月の第1次ノモンハン事件では双方大きな犠牲を生じ、ソ連はベラルーシ軍管区司令官代理のジューコフ中将を派遣。戦力強化。
名将ジューコフ。日本ともドイツとも戦い、勝利した。写真はwikipediaより。
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【紛争の拡大】
★その後、度重なるソ連航空機がハルハ河を越えて行動するようになると、日本軍飛行部隊は6月27日、航空基地への奇襲爆撃を行う。
★ソ連中央では拡大を避けようとしていたが、現地軍は戦車の投入、主力部隊の投入など拡大。
★これまで日本軍参謀本部と関東軍の戦略方針の対立が研究されてきたが、ソ連でも同様のことが起きていたのだった。
【独ソ不可侵条約】
★八月攻勢で日本軍は大打撃。
★この八月攻勢中に、独ソ不可侵条約が結ばれたことに着目。
★ソ連が東西国境の安全保障という観点からノモンハン事件を重要視していたことが窺える。
【ソ連を中立化する動き】
★ノモンハン事件の敗退と、独ソ不可侵条約締結により、日本のソ連に対する戦略的認識は大きく変化した。
★1939年8月30日に成立した阿部信行内閣は「自主外交の確立」を掲げ、欧州戦争への不介入と日中戦争の解決へ邁進するため、英米仏との国交調整とともに、ソ連との国交調整を開始。
★ドイツのリッベントロップ外相は日独ソの提携が呼びかけられる。
★これには中華民国を裏で支援する英国を打倒するという共通の目的があった。
♨この時代の内閣総理大臣の中で、阿部信行が一番まともなような気がするのだが僕だけだろうか・・・。
【日独伊三国提携強化案】
★再びソ連との平和維持を謳う。
★一方、万が一、戦争になった場合はソ連に援助することを禁止するほか、日独が連携してソ連に対応するというもの。
★ドイツの西部戦線での活躍は、日本に南方進出を促すこととなった。
【第2次近衛内閣】
★有田八郎外相による「東亜新秩序」構想と日ソ国交調整という外交方針は7月22日に成立した第2次近衛内閣、松岡洋右外相にも引き継がれた。
★組閣前の「荻窪会談」ではソ連との間で有効期限を5年ないし10年とした「日満蒙間国境不可侵協定」を締結するとされた。
【日独伊三国同盟】
★9月27日、日独伊三国同盟が締結。
★ソ連に対する敵対意識が明示されなかった。
★松岡洋右は日独伊ソの四国協商を掲げ、世界「新」秩序を推進しようとした。
【四国協商】
★四国協商構想は1939年の独ソ不可侵条約の翌日には現実的に日本がもっとも有利な政策として海軍省では掲げられていた(!)。
★これまで「海軍」=「三国同盟反対」と考えられてきたが、海軍上層部には四国協商を支持する考え方があったということが判明した。
★日独防共協定自体にも反英的な側面が内在していたことも指摘されている。
★しかし、独ソ間の交渉は決裂。四国協商は幻となる。
【対独伊蘇交渉案要綱】
★ソ連にリッベントロップによる「四国協商案」を受諾させて、共に英国打倒に向かおうとした。
★しかし、この時点ですでに独ソ外交交渉は決裂していた。
★日ソ国交調整にもドイツの仲介を期待していた。
★ソ連に援蔣行為放棄も求めた。
★また、国際秩序構想として、世界を「大東亜圏、欧州圏(アフリカを含む)、米州圏、ソ連圏(インド、イランを含む)の四大圏」とすることも述べられた。
【日ソ中立条約】
★4月13日、日ソ中立条約締結。
★第1条でソ連のモンゴル支配、日本の満州支配を相互承認。
★第2条は一方が第三国と戦争になっても中立を守ること。
★第3条は有効期間が1946年4月とすること。
★不可侵条約ではなく中立条約となった事情として、中華民国と日本が正常な関係を回復するまでは、ソ連は日本とはいかなる不可侵条約も締結しないという方針であったためである。
【日ソ中立条約の意義】
★独ソ戦開始により四国協商は水泡に帰した。
★しかし、日ソ中立条約は太平洋戦争期に枢軸国側と連合国側という交戦する両陣営を結ぶ唯一の公式ルートとして存在した。
♨そのため、終戦時、ソ連に仲介を頼んでいたのだが・・・
★また、日ソ中立条約のために、日本は陸海軍に「北方静謐」をもたらし、南進政策をとる転換点ともなった。
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