こんにちは。
今回、ご紹介しますのは『分裂から天下統一へ』(村井章介、2016年、岩波新書):第1章第3項「琉球王国の盛衰」です。
「琉球王国」=「小国」と思い込んでいたのは、実に失礼でした。
【琉球王国】
これまで琉球王国は段階的に島津氏に従属したものと考えられていた。
しかし、1508年の段階ではむしろ琉球王国に対して島津氏が従属していたことが判明した。
種子島氏や肥後の相良氏なども従属関係にあると考えられる。
琉球王国がこの時代における当地の中心に位置していたことが窺える。
琉球王国簡略年表
琉球王国は中継ぎ貿易で栄えていたが、倭人勢力、中国密貿易商人、ポルトガルの台頭によって徐々にその力を弱めていった。
1429 | 尚巴志が三山統一 |
1458 | 「万国津梁の鐘」できる |
1470 | 琉球、第1次尚氏王朝倒れ、第2尚氏王朝へ |
1477 | 尚真王即位、琉球王国隆盛の時代へ |
1493 | 明応の政変 |
1498 | バスコ・ダ・ガマ、カリカット到着 |
1508 | 島津忠治、琉球王に臣従 義稙、将軍復帰 |
1511 | ポルトガル、マラッカ占領 |
1521 | 種子島忠時、琉球と君臣関係を結ぶ マゼラン、フィリピンに到達ののち戦死 |
1523 | 寧波の乱 |
1526 | 博多商人神谷寿禎、石見銀山発見 中国浙江の双嶼が倭寇の根城となる |
1533 | 神谷寿禎、「灰吹法」を導入、以後、銀の大増産 |
1540 | ポルトガル商人、倭寇棟梁の許棟に誘われ、双嶼に到達、密貿易ルート隆盛 |
1542 | 種子島に鉄砲伝来 |
1549 | ザビエル上陸、キリスト教伝来 |
1553 | 後期倭寇最盛期 |
1557 | 王直、官憲に投降、以後、倭寇は衰退 |
1565 | 三好三人衆ら、将軍足利義輝を殺害、義栄を擁立 明、一条鞭法を浙江で実施 |
1566 | メキシコでアマルガム銀精錬法が実用化 |
1567 | 明で海禁緩和 |
1568 | 信長、義昭を奉じて入洛。義昭、将軍に。 |
1570 | この年を最後に琉球船、東南アジアから姿を消す |
1571 | スペイン、フィリピンのマニラ占領 |
1572 | 明で一条鞭法、全国的に実施、銀の需要高まる |
1573 | 室町幕府滅亡 |
1575 | 琉球使、薩摩で外交非礼を咎められる(あや船一件) |
1588 | 秀吉、刀狩令、海賊停止令 |
1590 | 秀吉、琉球国王に服属要求 秀吉、小田原征伐。奥州も平定。天下統一。 |
1592 | 秀吉、朝鮮出兵(文禄の役) |
1597 | 慶長の役 |
1600 | 家康、島津氏、琉球を介し明と国交回復はかる 関ヶ原の戦い |
1601 | 家康、東南アジア諸国に国書を送り、朱印船貿易の開始を交渉 |
1603 | 家康、征夷大将軍に。江戸幕府。 |
1609 | 島津軍が琉球を征服、奄美諸島割き取る |
1872 | 琉球王国、琉球藩に |
1879 | 廃藩置県で沖縄県設置 |
以下は読書メモ。
(東アジア国際社会と琉球)
★琉球は明の建国後、いち早く冊封体制に参入した。当初は3つの小王国がそれぞれ冊封を受けていた。
★琉球は海禁政策を行なう明にとって東南アジアの産物を入手する窓口となった。この交易ルートは日本、フィリピンまで延び、琉球はその中心として繁栄した。
★中国からの貿易商も「久米村」に住み、実務を行っていた。
★欧州人は琉球を通じて日本を知った。
(日本はシナの臣下だとか、海洋民ではないとかいうような類の情報も伝わる。)
(尚真王の時代)
★15世紀になると頼みの明は財政負担から対外貿易に消極的に。第2尚王朝に貿易は衰退期にさしかかる。1474年には朝貢回数が年1回から2年に1回に減らされた。
(国内統治と言う面では1477年から半世紀に及ぶ尚真王の時期が最盛。)
★奄美諸島へも進出した。南九州勢とも衝突した。宮古、与那国まで版図を拡げる。
★文化は福建地方の影響を受けるが、言語はヤマト系。東南アジア的な建物もあり、アニミズムもある。要はハイブリッドである。(※平仮名が公用文字)
(<海洋アジア>の解体)
★中継貿易の競争者として、倭人勢力があげられる。
★海禁政策のゆるみから、中国人密貿易商が跋扈。これも琉球への脅威となる。
★ポルトガルのアジア進出も脅威となる。1511年のマラッカ王国滅亡は南海貿易の重要拠点を失うことを意味した。
★1570年、シャム通交を最後に琉球船は東南アジアから締め出された。ヤマトの相対的地位が上昇し、薩摩がそこを狙った。
(琉球中心の国際秩序)
★1508年の島津家当主の文書を見ると、琉球>薩摩である。ほかにも種子島氏や、相良氏を臣下として扱うなど、琉球中心の国際秩序が形成されつつあったのだ。
(♨琉球は最初から段階的に島津氏へ従属したのではない。)
★島津氏は貴久、義久の代で領国支配を軌道にのせたが、弱体期に琉球に従っていた事実は闇に埋もれている。
(島津への従属化)
★1587年、島津氏が秀吉に下るとともに、秀吉に間接的に仕えた。秀吉は朝鮮出兵の際、兵糧の用意と普請を命じている。
(※一方で1591年、秀吉の大陸征服計画を明に通報している。)
★1609年、島津氏の琉球侵入で従属へ。