こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「淳仁天皇」時代です。
一度は天皇の座を退いた孝謙天皇ですが、藤原仲麻呂との方針の違い、感情のもつれから両者は決戦となります。
ともに権力者同士の戦いは孝謙天皇の勝利となりました。
仲麻呂方と見られた淳仁天皇は廃位させられます。
第47代:淳仁天皇期(758年~764年)
【淳仁天皇】733-765。父は天武天皇息子の舎人親王で当時57歳。聖武天皇は遺言で同じく天武天皇孫の道祖王を孝謙天皇の皇太子に任命していたが、聖武天皇死後、藤原仲麻呂の推挙で天皇になった。藤原仲麻呂と淳仁天皇は親子のような間柄。
藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱に連座して淡路に流され、謎の死をとげる。(おそらく暗殺。)
758 | 孝謙天皇、大炊王に譲位。淳仁天皇誕生。 ※前年、皇太子に就任していた。 |
762 | 道鏡が孝謙上皇の病気を治癒 道鏡との関係を諭した淳仁天皇は孝謙上皇の怒りを買い、孝謙上皇は「天下の小事は天皇に、天下の大事は私に」と発言。 |
764 | 恵美押勝の乱 ポイントは「玉璽」と「駅鈴」の奪い合い。 ※恵美押勝=藤原仲麻呂。藤原武智麻呂の子。これにより仲麻呂と親子同然の付き合いだった淳仁天皇は孝謙太上天皇により廃位させられ、再び孝謙天皇が称徳天皇として即位した。 仲麻呂は渤海からの新羅討伐案に乗り気であったために、この乱が鎮圧されたことで大陸への深入りは回避された。 |
♨当時は天皇が簡単に流されたり、かつて皇太子候補であった皇族が拷問死したり(橘奈良麻呂の乱における道祖王や、長屋王息子の黄文王)と穏やかでない。恵美押勝の乱でも塩焼王が死亡。
758年、淳仁天皇即位
762年、孝謙上皇の逆襲
764年、藤原仲麻呂の乱
結果的に孝謙上皇側が勝利したことで、上皇は称徳天皇として重祚することになりました。
淳仁天皇は廃位させられ、淡路に流されます。
まだ淳仁天皇を皇太子に推す派閥もあったためか、淳仁天皇は淡路で謎の死をとげます。(おそらく暗殺)
霊を鎮める:百万塔陀羅尼
百万塔陀羅尼は恵美押勝の乱の後、称徳天皇が発願して作られました。
年代が確実な印刷物として世界最古のものです。
小さな塔の中に経を丸めて納めております。
法隆寺などに保存されております。
藤原4兄弟の子孫主要メンバー
仲麻呂が天下を取っていれば、南家がリードしていたかも知れないが、
仲麻呂以降は式家が中心的存在となった。
しかし、薬子の変で式家は落ちぶれ、以後は北家の時代が来る。
南家 | 北家 | 式家 | 京家 | |
第1世代 | 武智麻呂(680-737) | 房前(681-737) | 宇合(694-737) | 麻呂(695-737) |
第2世代 | 仲麻呂(706-764) | 永手(714-771) 清河(不明) | 広嗣(不明-740) 百川(732-797) | 特記なし |
それ以降 | 冬嗣(775-826) | 種継(737-785) 仲成(764-810) 薬子(不明-810) 緒嗣(774-843) | 特記なし | |
要点 | 恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱で勢力減。 | 薬子の変以降、冬嗣が台頭、以後繁栄。 | 藤原広嗣の乱、薬子の変で勢力減。 | 異母弟なので最初から弱かった。暗記不要。 |
春日大社は藤原家の氏寺であるが、称徳天皇の命で藤原永手が造営。20年ごとに建て替え。 鹿島神宮にゆかり。