~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「鎌倉後期③:1271年」です。

度重なる他宗や幕府への批判により、日蓮上人は斬首刑…

となるはずでしたが、奇跡的に斬首取りやめとなり、代わりに佐渡へ配流となりました。

一方、朝廷のもとには三別抄から救援要請、モンゴル帝国から朝貢要請の使者が訪れます。

朝廷はモンゴル帝国には返書を送ろうかと考えもしましたが、結果的に両者とも「黙殺」します。

おそらく幕府の意向があったのではないか、と考えられます。

文永8年(1271年)年表

9/12日蓮、「龍の口の法難」のより幕命で佐渡配流(※1)

※斬首されるところ、雷により奇跡的に中止。その代わりに佐渡配流。
※斬首しようとしたのは、平頼綱。のちに霜月騒動で権力を握る。
※日蓮…1253年に日蓮宗を開き、1260年に「立正安国論」を記す。他宗や幕府への激しい批判から危険視されていた。
9三別抄より使者が訪れる(※2)

※元への服属を拒んだ高麗の武官グループより、日本に数万規模の兵を応援依頼。
※自らを「高麗王朝」と名乗る。
※これまでの高麗国の使者と依頼の内容が異なるため、日本側は不審に思い黙殺。
※三別抄は日本に応援要請する一方で、フビライには「服属するから兵を下げてくれ」と懇願。
9/19蒙古使・趙良弼来航(※3)

※趙良弼は女真人。100人規模の使者。
※兵力も朝鮮半島に集結させる。
※朝廷は返書を送ろうとするが、またしても時宗は拒否。
※ただ、日本からも使者を送り、趙良弼とともにモンゴル帝国へ。
モンゴル帝国の襲来に備えて異国警固番役開始
11/8フビライ、モンゴル王朝の国号を元とする(※4)

※西暦1271年12月18日。
※中国風に改めた。
12朝廷、伊勢神宮に異国降伏を祈る

(※1)日蓮、佐渡島に配流

まずは日蓮さんの教科書的な記述を紹介します。

日蓮(1222-82)は安房の小湊に生まれ、12歳で仏門に入った。

天台寺院で台密を学ぶうちに法華経の教えが最も優れているとの確信に達し、日蓮宗(法華宗)を開いた。

彼は南無妙法蓮華経という題目を一心に唱えればそのまま仏になれるとし、主著『立正安国論』で法華経を中心に据えた国づくりを説いた。

鎌倉に出た日蓮は「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と他の宗派に激しい攻撃を加え、戦闘的な折伏(しゃくぶく)を行った。

そのため他宗の反感をかい、幕府からも迫害を受け、2度流罪(伊豆・佐渡)に処せられた。

「詳説日本史研究」p165-6
なんせ激しい。

今で言うところの、「炎上」でしょうね。

日蓮
いえ、そんなつもりはないです。

だってこれまでの宗教は世間を救っていないじゃないですか。

そうした危機感から「立正安国論」を1260年に記して幕府に贈りました。

私は漁師の息子で、庶民の味方です。

そして、来世で救われても意味はないとの考えを持っています。

「立正安国論」のすごいところは、

外国の侵略や、内乱勃発を予見していて、

その対応策を記していることです。

信者から大陸の情報や、幕府の情報を得ていた可能性はあるにせよ。

日蓮さんを斬刑しようとしたところ、落雷により刀が折れた、

っていうシーンは本当なんでしょうか??

いずれにしても死刑を免れて流刑になるのですね。

法華信仰を受容しなければ内乱と侵略がおきるだろう、と日蓮が警告するところに蒙古襲来があり、一部には彼の言動を見直す動きもあったが、幕府はやはりその主張を認めなかった。

日蓮は鎌倉を去って、甲斐の身延山に赴き、弟子の育成につとめ、のち常陸に向かう途中の武蔵で死去した。

日蓮の教えは身延山を中心に、主に地方武士や商工業者の間に広まっていった。

「詳説日本史研究」p166
ちょっと先走って説明してしまいますが、

 

3年後に異例の赦免が出て鎌倉に戻りました

その後、身延山に移りました。

身延山は本当に良いところでした。

石原莞爾
日蓮先生の教えは信じております!
日本史で山梨県が出てくるのはレア。

(※2)三別抄の使者、訪れる

三別抄とはモンゴル帝国への服属を拒否する武官グループのことでしたね。
もうちょっと厳密に言いますと、そもそも高麗王朝内部の対立がずっとあって、

元と組んだグループのことを「文官グループ」とここでは称しております。

「元の武力」という後ろ盾を得たのは良かったものの、

いろいろと「こき使われる」ことになりました。

朝廷は正式な高麗国の王朝とは仲良くしようとしておりました。

しかし、こっちの高麗王朝はなんか胡散臭いと思って黙殺します。

三別抄の抵抗は1273年まで続けられます。

元寇の1回目が1274年ですので覚えやすいかな。

(※3)元使・趙良弼が来日

1271年、元の使者趙良弼(1217-86)が九州に到来し、入貢を強く迫った。

時宗はまたも元の国書を黙殺するとともに、九州地方に所領をもつ東国御家人に、九州に赴いて「異国の防御」にあたることを指令し、筑前・肥前の防衛を厳重にした。

「詳説日本史研究」p153
「九州地方に所領をもつ東国御家人」という言葉が存在する理由は

おそらく「承久の乱」で幕府側が勝って西国の所領を得たことにも由来するんでしょうね。

朝廷としては、やはり元に返書を送ろうと考えました。

しかし、議論が統一できなかったのもあってか、回答期限切れとなります。

時宗
私は一貫して返書を送ることに反対しております。

これには国内の整備を行う時間稼ぎという意味合いもあります。
朝廷からの返書案を見ましたけど、割と勇ましいもので、これでは即座に戦争になりかねない、と思いましてね。
実はこの時期、趙良弼、三別抄のほかに、南宋からも使者がおりました。

南宋も趙良弼の妨害を行ったと考えられております。

(※4)フビライ、国号を「元」とする

名前を変えただけなんだけどねー。

チンギス=ハーンの孫にあたる5代目のフビライ(在位1260-94)は都を大都(北京)に遷し、1271年、国号を中華の伝統にならって元(1271-1368)と称した

彼は中国大陸の支配に強い意欲を示し、南宋の討滅を推し進めていった。

同時に南宋と朝貢・通商関係をもつ地域(カンボジア・ビルマなど)につぎつぎと派兵して支配下におき、東は高麗をおさえて、ついで日本の征服を計画するにいたった。

「詳説日本史研究」p153
強すぎてしゃーないわ。

南宋叩くには日本も叩いといた方が良さそうやねん。

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