こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「建武政権⑧:1335年9-11月」です。
東征した足利尊氏は即座に鎌倉を奪還しますが、その後も北条の残党を名目に、鎌倉を離れません。
後醍醐天皇はこれを「謀反の疑いあり」としました。
尊氏はいったん隠居し、弟・直義がトップに立ち、後醍醐天皇と戦うことになります。
建武2年(1335年)9-11月年表
9/3 | 小笠原貞宗、安曇・筑摩(長野県松本市)・諏訪(諏訪市)・有坂(小県郡長和町)の諸城を攻め落とす。 |
9/22 | この頃、信濃惣大将村上信貞、坂木北条城を攻め落とす。 ※坂木北条城には薩摩刑部左衛門入道と「先代与力の仁」が籠城していた。 ※薩摩氏は得宗被官工藤氏の一族。薩摩左衛門入道は陸奥将軍府で侍所に所属していた。 ※村上信貞はかつて護良親王の身代わりとなって討死した村上義光の兄弟。 |
9/30 | 信濃国司堀川光継、小笠原貞宗らと横河城(伊那郡辰野町)を攻める。 ※横川城には諏訪氏の分流で神氏一族の宮所氏が籠城していた。 |
10/3 | 足利尊氏、相模で時行方の残党を討つ ※現在の横須賀市、平塚市にまだ時行の残党がいて鎌倉を狙っていたため、尊氏は帰京できなかった。 ※尊氏は自らを「征夷将軍」と自称し、武士たちに勝手に恩賞を与え始めた。 ※また、拠点も旧鎌倉幕府跡に移す。 |
11/22 | 後醍醐天皇、尊氏・直義処罰の綸旨を出す ※反逆を企てているとされた。 ※尊氏は後醍醐天皇と戦う気はなく、直義に政務の全てを譲り、自身は浄光明寺(鎌倉市)に籠もった。 ※新田義貞が尊氏を討つ準備を命じられる。 |
11/25 | 矢作川の戦い、開戦(愛知県岡崎市) ※新田義貞と弟の脇屋義助が、6万の軍勢を率いて足利直義軍と交戦。 ※敗れた直義は遠江へ敗走。 ※義貞は逃げる直義を追い、鷺坂(さぎさか:静岡県磐田市)での合戦でも勝利。 (※高師泰も新田義貞に敗退。金ヶ崎城の戦いでリベンジ。) |
11/26 | 後醍醐天皇、足利尊氏の官職をすべて解任 ※これにて完全に決裂。 |
まだ時行くんが生き残っている気がするんだよね、、
尊氏はなぜ私の命令を聞かないんだ、、
もしや、、
まだ鎌倉周辺に北条の残党がいるから帰れないんじゃないんですか?
それに恩賞も与えないと武士たちが言うこと聞かないのでは、、?
そこじゃ、そこなんじゃよ。
武士どもが勝手に恩賞を与えるのはダメダメ!
土地は全部わたしのもので、わたしがあげなきゃダメ!
尊氏、京都に帰って来い!
兄さん、京都に戻ったら殺されますよ!
はははー
ま、後醍醐天皇の計略でなんて死にやしないけど、
なんか面倒くさいから、後醍醐天皇の相手は直義に任せたよ。
僕は隠居したことにしといて、その間に、北条時行くんを見つけ出すから。
私は信濃を探しますねー
時行くん、ど・こ・だー??
「逃げ上手」の真骨頂。
しばらく身を潜めるよー。
よし、足利一門の総力をあげて、この独立戦争を勝ち抜こう!
「完全に建武政権と決裂したこの建武二年(1335年)後半をもって、室町幕府は成立したと見なしてよい。…室町幕府は、成立した瞬間から直義が名実ともにトップだったのであり、直義が室町幕府を創ったといっても、決していいすぎではない。」
ただ、みんなが僕のことを「将軍」と呼んでくれるし、直義も僕を長として立ててくれるんだ。
まあ、戦が強いから、かな^^
まあ、戦が強いから、かな^^