こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「幕末年表⑥:1860年」です。
水戸藩士らにより井伊直弼が暗殺されました(桜田門外の変)。
この混乱を収めるには、「公武合体」しかない、という結論にいたり、
将軍家茂と、天皇妹の和宮の婚姻が結ばれます。
しかし、そのために朝廷が出した条件は、
「攘夷の実行、鎖国体制への回帰」
でした。
1860年(安政7年/万永元年)
1/15 | 安藤信正、老中就任。 |
1/22 | 遣米使節団出発。(※1) ※条約批准交換のため。 ※正使:新見正興(外国奉行)。 ※勝海舟は咸臨丸艦長として別便で向かう。本隊は一度補給を行ったため結果的に咸臨丸の方が先にカリフォルニア到着。福沢諭吉は勝海舟を「船酔いで使い物にならなかった」と言うが、感染症で(?)「生死をさまようほどの状態」だったそうだ。 技術的には、航海に熟練した米兵がいなければ到達できなかったよう。 |
3/3 | 江戸城桜田門外の変(※2) ※薩摩藩士が1人(有村次左衛門)加わっているが、これは前年夏の島津斉彬急死が毒殺と考えていたからである。のち自刃したが、残った薩摩尊攘派は久光にとっては迷惑であり、寺田屋事件へつながる。 |
3/18 | 万延に改元 |
閏3 | 五品江戸廻送令(※3) |
4/10 | 万延小判運用開始(※4) しかし、インフレを招き、さらに物価高騰となる。 |
9/4 | 慶喜、謹慎解除 |
10/18 | 皇女和宮、将軍家茂への降嫁が勅許を得る(※5) ※婚儀は1862年2月。 ※「10年以内の鎖国体制復帰」が条件 |
12/5 | ヒュースケン殺害事件 ハリスの通訳、ヒュースケンが薩摩藩の浪士に斬り殺される。 英仏が江戸を攻撃する計画も出ていたが、英仏に主導権を握られることを嫌った当のアメリカ・ハリスが穏便な処理を主張。 |
(※1)遣米使節団
1860年、幕府は日米修好通商条約批准書を交換するため、外国奉行新見正興(1822-69)を主席全権としてアメリカに派遣し、このとき勝義邦(海舟、1823-99)らが幕府軍艦咸臨丸を操縦して、サンフランシスコまで太平洋横断の航海に成功した。
「詳説日本史研究」p321
(※2)桜田門外の変
弾圧に憤激し、水戸藩を脱藩した浪士たちは、1860年、井伊を江戸城桜田門外に襲って暗殺した。この桜田門外の変の結果、幕府の専制的な政治によって事態に対処しようとする路線は行き詰まり、幕府の威信は大きく動揺し始めた。
「詳説日本史研究」p323
こういうことしたから、水戸藩はその後、浮かばれなかったってことよ。
この件もあって、安政は改元され「万延」となります。
(※3)五品江戸廻送令
輸出品生産地と直接結びついた在郷商人が問屋を通さずに直接商品を開港場に送ったので江戸など大都市の問屋商人を中心とする流通機構が崩壊。
幕府は従来の流通機構を維持するために貿易の統制をはかり、雑穀・水油(みずあぶら)・(ろう)蝋・呉服・生糸の横浜直送を禁止した。
というわけですね。
(※4)万延小判
…そのため、10万両以上の金貨が海外に流出した。幕府は金貨の品位を大幅に引き下げた万延小判を鋳造してこの事態を防ごうとしたが、貨幣の実質価値が下がったため物価上昇に拍車をかけることになり、下級武士や庶民の生活は著しく圧迫された。そのため貿易に対する反感が高まり、反幕府的機運とともに激しい攘夷運動がおこる一因となった。
「詳説日本史研究」p322
(※5)公武合体
桜田門外の変のあと、幕政の中心にすわった安藤信正(1819-71)は(中略)、朝廷(公)と幕府(武)が協調して政局を安定させようとする公武合体政策を進めた。それを象徴するものとして、孝明天皇の妹和宮(1846-77)を将軍家茂の妻に迎えることに成功した。
2人は仲の良いカップルだったらしい。
当時、テレビがあればこれをもっと利用できたのにね。
しかし、朝廷が和宮降嫁の条件に出したのは、
『攘夷を実行し、鎖国体制に戻すなら和宮降嫁を認める』
といったものでした。
この条件がさらなる火種を生みます。
しかし、その後、孝明天皇が公武一和を目指されるので、私も公武一和を推進します。
そのため、攘夷派から命を狙われるわ、佐幕派と見られて失脚するわになるのです。