こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「幕末年表⑨:1862年下半期」です。
島津久光と公武合体派朝廷による「文久の改革」が実行に移され、
徳川慶喜は「将軍後見職」に、松平春嶽(慶永)は「政事総裁職」に就任しました。
また、最も危険極まりない京都の警備を行う「京都守護職」も新設され、
会津藩主:松平容保が引き受けることになりました。
これが会津藩の悲劇の始まりでもありました。
一方、長州藩は攘夷派が再び台頭して薩摩藩や会津藩とは決別します。
そこへ三条実美ら、攘夷派公家が結びつくことで、
きな臭い動きが漂うこととなります。
また、島津久光は江戸からの帰り道、
大名行列を散歩中の英国人が馬で横切ろうとしました。
相手は鉄砲を持っているに違いありません。
家臣らが久光の危険を察知し、外国人をが斬り殺します。
これを「生麦事件」と呼びます。
大名行列を横切る方に問題があったという意見もありましたが、
イギリスは賠償金と下手人の確保などを要求しました。
1862年(文久2年)下半期
7/6 | 慶喜、将軍後見職就任 ※久光の意向。のちに、朝廷の命で禁裏御守衛総督と言う新設ポストに。 長州藩、破約攘夷を藩是とする(※1) ※久坂玄瑞、桂小五郎らの画策により長井雅樂が失脚。 |
7/9 | 福井前藩主松平春嶽(慶永)、政事総裁就任 ※久光の意向。老中久世広周、安藤信正は失脚。幕臣たちは面白いはずがない。 ※参勤交代は隔年であったが、3年に1回になる。 |
8/20 | 岩倉具視失脚(※4) ※天皇と同じく公武合体を推進する立場をとっていたところ、攘夷派志士たちからは佐幕派とみされ、三条実美ら攘夷派朝廷からも弾劾されて、失脚を余儀なくされた。復帰するのはその5年後である。 |
8/21 | 生麦事件。(※2) 久光、京都への帰途、東海道生麦村でイギリス人を殺傷。 ※駕籠の横から鉄砲で狙われたら一大事である。大名行列は横からの攻撃に弱く、平民はひれ伏して攻撃する意図がないことを示すのが常識であった。「英国人が横切っただけなのに」なんて生半可なものではないのだ。また、この生麦村は「国内ルール」と「対外国ルール」の二重のルールが存在する地域であったため、このような事件が起きてしまった。 |
閏8/1 | 会津藩主松平容保、京都守護職就任。(※3) ※松平春嶽より白羽の矢。久光への権力集中を嫌った? ※容保は固辞するも保科正之から続く「藩是」のため、ついに決心。 ※薩摩藩のままで良かったのでは?会津藩の悲劇はここから始まる。 ※新撰組は京都守護職配下。 |
閏8/7 | 久光、京都に入る。 ※朝廷内を長州藩の破約攘夷論が席巻しており、京都の激変に失望した。薩摩と長州は関係悪化。天誅と称した殺人事件頻発。 |
閏8/23 | 久光、帰国の途に就く。 ※長州藩が主導権を握る。 |
9/21 | 土佐藩主山内豊範、勅使三条実美を奉じて江戸に向かう ほか、長州藩・久坂玄瑞らも。 ※この頃、土佐は武市半平太ら攘夷派が藩論をリード。 |
11/27 | 三条実美、江戸城に登城し、攘夷の実行を求める勅旨を家茂に伝える(※4) |
12/12 | イギリス公使館焼打ち事件 |
12/24 | 容保、京都に入る |
(※1)長州藩、攘夷に転じる
長州藩も、初めは公武合体運動を進めていたが、1862年に中下級藩士の主張する尊攘論を藩論とし、朝廷内部の尊攘派の公家とも結んで、京都で活発に動いて政局の主導権を握った。
「詳説日本史研究」p324
熱い方じゃった・・・
(※2)生麦事件
文久の改革を主導した薩摩藩の島津久光、江戸からの帰途、東海道生麦付近で行列に遭遇した英人4名に藩士が斬りかかり、1名を殺害。薩英戦争の原因となった。
「日本史のライブラリー」p206
そんな甘いもんじゃないって。
それに相手はピストルを持っているかも知れないので、近づかれたら殺らざるを得ない。
桜田門外の変の時もそうじゃったろう。
そりゃ殺されるだろう、っていう同情論も英国内では起きた。
結局、賠償金の支払いも幕府が行っているので迷惑千万。
藩士たちは優秀だったかも知れないけど、私としては複雑…
もし生麦事件がなく、薩英戦争もなく、私の影響力も維持できていればどうなったであろう…
(※3)京都守護職・松平容保
(幕府は)京都所司代などを指揮して京都の治安維持にあたる京都守護職を新設して、会津藩主松平容保(1835-93)をこれに任命し…(文久の改革)
「詳説日本史研究」p324
「義に死すとも不義に生きず」です。
(※4)攘夷派公家・三条実美 vs 公武一和派公家・岩倉具視
朝廷の動きも幕末を知る上では大事なのですが、
「三条実美」と「岩倉具視」を知っておけば良いのかと思います。
幕府との公武一和を推進した岩倉具視を失脚させた挙げ句、暗殺計画まで立てたのは攘夷派公家の三条実美です。
三条実美、姉小路公知ら攘夷派公家は、岩倉具視・久我建通・千種有文・富小路敬直・今城重子・堀河紀子の6人を幕府にこびへつらう「四奸二嬪」と弾劾しました。
この時期、政局の変化によって、それぞれの立場の人間が容易に失脚します。
話はちょっと先走りますが、岩倉らを排斥して絶頂期にあった三条実美も、1863年、「八月十八日の政変」で失脚します。
三条実美(27歳)、三条西季知(53歳)、四条隆謌(36歳)、東久世通禧(31歳)、壬生基修(29歳)、錦小路頼徳(27歳)、澤宣嘉(28歳)ら7人は京都を追放されました。彼らは攘夷が藩論となっていた長州藩へ向かいます。(「七卿落ち」)
その後は中川宮が中心となり公武一和を進めるも、
孝明天皇崩御後は求心力を失い、
「討幕派」が中心となるのです。
岩倉具視と三条実美はかつて敵対しておりましたが、「討幕派」ということで、とりあえずまとまるのです。