~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「幕末年表⑪:1863年下半期」です。

7月、前年の「生麦事件」の報復戦争とも言える、「薩英戦争」が起こりました。

押し寄せるイギリス艦隊の前に薩摩は苦戦を強いられましたが、

薩摩も相手艦長のうち1人を死傷させるなど、健闘しました。

結果的にイギリス軍は退却します。

そして、8月、京都では攘夷派が一掃される「八月十八日の政変」が生じました。

孝明天皇も長州藩および過激攘夷派公家を「国の災い」と呼ぶなど嫌っていたのです。

長州藩および過激攘夷派公家は追放され、新たな主導権争いが始まります。

1863年(文久3年)下半期

7/2 薩英戦争(※1)
薩摩藩、鹿児島湾に入ったイギリス艦隊と交戦。

※薩摩の被害も大きかったが、イギリスの艦長の1人を戦死させるなど善戦。
※「引き分け」と言われるが、結果的にイギリスが引き揚げたことから薩摩の勝利?
※薩摩藩の中下級藩士が奮戦。発言力を増す。
※ちなみに西郷隆盛は久光により島流しにあっており戦に加わっていない。
※孝明天皇は、この時期に過激派が政権を握っている事に危機感をもつ。
8/13 孝明天皇の大和行幸(攘夷親征)の詔が下る

※孝明天皇が望んだものではなく、過激尊攘派をバックに三条実美らが主導。
※政変により中止に。
8/17天誅組の変

※公家の中山忠光、土佐藩士の吉村虎太郎が大和五条の幕府代官所を襲う。
※翌日の政変で逆賊となり、最終的に幕府の追討を受け壊滅。(9/27)
8/18 八月十八日の政変(※2)

三条たち急進派公卿の参内を差し止め、長州藩の境町御門警備の任を解く。
中川宮ら「穏健派公卿」と薩摩、会津が優勢に。
8/19 長州藩、三条たちを擁して帰国の途に就く
10/3 久光、京都に入る

長州藩排除後の主導権争いがはじまる (※3)
10/12生野の変

※公家の澤宣嘉、福岡藩脱藩浪士の平野国臣らが但馬生野の幕府代官所を襲うが、間もなく鎮圧される。
11/26 慶喜、京都に入る
12/27 家茂、再び上洛の途に就く

※海路で。
※朝廷は江戸の幕閣から将軍を切り離し、幕政の主導権を握ろうとした。
12/30 慶喜たち諸侯、朝議参与に任命される。

慶喜の他、松平春嶽、伊達宗城、山内容堂、島津久光ら「参与会議」が行われることに。

(※1)薩英戦争

薩摩藩では、1863年に、先の生麦事件の報復のため鹿児島湾に来航したイギリス艦隊と交戦して大きな被害を受けた(薩英戦争)。このように欧米諸国の実力をみせつけられて、攘夷の不可能なことがしだいに明らかとなった。

「詳説日本史研究」p325
この記述、ちょっと待ったー!!

なぜ相手の被害について書かない!!

それに相手は退却してるだろーって!!

我が大英帝国相手に、敵ながら見事でしたぞ。

こっちは7隻、90門で臨みましたが。
相手が退却したから、相手の野望は砕いた。

ということは、薩摩の勝ちでは??

とはいえ、さすがはイギリス国じゃ。

馬関戦争で大敗した長州藩と一緒にされても困りますなぁ。

あ、おいどんは戦争に参加してないでごわすが。

この戦ののち、薩摩とイギリスは急接近するのです

和平会談は最初はこじれていたが、

最後、「軍艦購入の周旋をイギリスに引き受けて欲しい」と言ってきた。

以後、和やかに進んだよ。

犯人は「逃げた」の一点張りだったけど、不問にした。
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実はイギリスの要求は生麦事件の犯人の引き渡しでしたが、「誤訳」により島津久光を差し出せ、と伝わっていたため、薩摩藩は交渉うんぬんより「戦闘モード」でした。

(※2)八月十八日の政変

長州藩を中心とする尊攘派の動きに対して、薩摩・会津の両藩は朝廷内部の公武合体派の公家と連携し、ひそかに反撃の準備を進めていた。1863年8月18日、薩摩・会津両藩兵が御所を固めるなか、長州藩の勢力と急進派の公家三条実美(1837-91)らが京都から追放され、公武合体派が朝廷内の主導権を奪い返した。

「詳説日本史研究」p324
追放された公家が7人いたことから、「七卿落ち(しちきょうおち)」とも言いますね。
わかりやすく言うと、朝廷の中心がすぐに外国人を追い払おうという「小攘夷」派から、

力をつけてから攘夷をしようという「大攘夷」派に移ったというわけです。

「小攘夷派」の代表が、「長州藩」、「三条実美」
「大攘夷派」の代表が、「薩摩藩」、「会津藩」、「中川宮」

そして、この時点における「孝明天皇」。

隠遁中の「岩倉具視」もコッチ側に入る。

小攘夷派の連中ときたら、私が病気中だというのに無理やり行幸させようとしたり…

私を何だと思ってるんだ…!

「兵力をもって国の災いを除くべし!」

島津久光公、松平容保公、頼んだぞ!

(※3)長州排除後の主導権争い

こうして、小攘夷派が排除されました。

今後は、天皇の前で、有力諸侯たちで会議を行い政治を決めていこうと、「参与会議」が開かれることになりました。

メンバーは、

  • 徳川慶喜(将軍後見職)
  • 松平春嶽(越前藩前藩主)
  • 山内容堂(土佐藩前藩主)
  • 伊達宗城(宇和島藩前藩主)
  • 松平容保(会津藩主、京都守護職)
  • 島津久光(薩摩藩主島津茂久の父)

です。

しかし、今度はその「主導権争い」が勃発します。

さて、どうなるのでしょうか?

next:参与会議の行く末は?