こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「1941年、11月」です。
10月末に行なわれた大本営政府連絡会議で日米交渉の期限は11月30日とする方針が決まりました。
(※11/5の御前会議で正式決定)
開戦準備をする者、最後の望みを賭けて交渉を継続する者、開戦やむなしと考える者、中国撤退を受け入れるべきと考える者、様々な思いが錯綜する1ヶ月となりました。
さて、どうなるのでしょうか。
以下、「総力戦のなかの日本政治」などを参考にさせて頂きました。(「前回まではコチラ」)

【年表】1941年11月
3日 | 杉山元(陸軍)、永野修身(海軍)、作戦計画を天皇に上奏 ・杉山は「南洋作戦は三か月で片付ける」と豪語。 ・しかし、「シナ事変の時は一か月で片付ける、って言ったよね?」と天皇に言われる。 ・杉山は「シナは奥地が広うございまして」と答える。 ・すると天皇は「太平洋はもっと広いではないか」と言われ、杉山は言葉に窮する。 【杉山元の評価はコチラも】 |
5日 | 御前会議 ・帝国国策遂行要領が原案通り可決(交渉期限は11/30) ・この頃は天皇も交渉不成功なら開戦やむなしと考えていた |
7日 | 野村ーハル会談 ・「甲案」を示す(→のちに拒否され、より妥協的な「乙案」を示す) ・ちなみに10月から毎日のように会談してます【wiki】 |
15日 | 「対英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」作成(※1) ・戦争の展開と終結のシナリオ ・占領地支配の方針決定 |
16日 | 来栖三郎、特命大使として米国入り(※2) |
20日 | 「南方占領地行政実施要領」決定 ・占領地では軍政を敷くこと ・治安回復と重要資源獲得を目指す |
21日 | アメリカに「乙案」を提示(野村吉三郎、来栖三郎) ①日米は仏印以外の南東アジア、南太平洋に武力進出しない ②日米は蘭印において物資獲得が保障されるように協力する ③日米の通商関係を資産凍結以前の状態に復帰させアメリカは石油の対日供給を約束 ④アメリカは日中和平の努力に支障を与える行動に出ない これらにより日中和平、太平洋の平和が確立されれば日本は撤退する ※ちなみに「乙案」作成は幣原喜重郎。【コチラも】 |
22日 | ハル、3ヶ月有効の「暫定協定案」を作成 →「蒋介石メッセージ」を仕組んだオーウェン・ラティモアらによって潰される【コチラも】 |
26日 | アメリカ、「ハル・ノート」提示(※3) ・日本は中国、仏印からの一切の軍、警察撤収をはかる ・日米は重慶政府以外を支援しない ・日米は中国での治外法権を放棄 などなど。「乙案」も拒否された。 |
30日 | 交渉期限終了 |
(※1)「対英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」の評価は?
これは、
・英米蘭の東南アジア、西南太平洋の根拠地を攻撃、重要資源を確保
・日独伊三国でイギリスを屈服
・日独伊三国でアメリカの戦意を喪失させる
・援蔣ルート遮断などで中国を屈服
・独ソ講和をはかりソ連を枢軸国側に入れる
というものでした。
つまり、他国の動向があまりにも大きな位置を占めるという、
あまりにも他力!!
なもの。

それとあまりにもドイツに依存しすぎ。大した連携も取れていないのに。
(ドイツは必ず負ける、と断言した人は西園寺公望や井上成美ら、多勢いたのですがね・・・)
(※2)来栖三郎、ってどんな人?
この絶体絶命の場面で投入された来栖三郎。
どんな人なのでしょうか?
【来栖三郎】(くるす さぶろう)
1886年、横浜生まれ。
外交官。日独伊三国同盟締結時の駐独大使。もっとも本人は親英米派で、三国同盟には反対派でした。
しかし、日米交渉に際し、急遽、「第二大使」に選ばれアメリカへ・・・。
・・・ということがwikipediaに書いてありますが、具体的に「切り札度」がどれくらいだったかはよくわかりません・・・。
三国同盟締結時の駐独大使であったことからアメリカに警戒されていた、ともありますが・・・
だとすればミスチョイス?
もっとも、奥さんがアメリカ人で英語に堪能であったため、それほど英語が得意でなかった野村吉三郎のサポートという面も期待して送られたようです。(ちなみに年齢は野村の8歳下)
(※3)「ハル・ノート」は本当に最後通牒だったのか?
「ハル・ノート」によって戦争に導かれた、という考えがあります。
しかし、ハル・ノート到着前にすでに6隻の航空母艦などからなる機動部隊が択捉を出航しておりました。
こうしたことから、
「ハル・ノートによって、国民の腹もかたまったであろう。開戦への踏み切りが容易となった。めでたし、めでたし」
という声も上がっていたそうです。
また、「中国からの撤退」という要求に「満州」が含まれていたのかは争点です。
アメリカは満州国を承認していませんでしたが、満州からの撤兵を要求したことはありません。
日本は「満州も含む」と考えていたため、あえて確認しなかったのかも知れませんが、一度、確認しても良かったのではないか、という意見があります。
ただ、陸軍はあくまでも中国への防共駐兵を絶対条件としていたために、満州は含まれていなかったとしても、日本が受け入れなかった可能性はあったであろう、とのことです。
(※4)石原莞爾の見解は?
「油が欲しくて戦争するバカがおるか!」
といったエピソードは有名。
また、石原が考えた日米和平案は、ハル・ノートに酷似したものだったと言われます・・・。
世界最終論争を唱えつつもアメリカとの戦争は時期尚早と考えておりました。
後世の我々から見ますと、アメリカと戦争してあんな目に遭うのだったら、石原莞爾の意見を聞いて、とっとと中国撤兵すれば良かったのに・・・としか思わないのですが。
どうなんでしょうねー。
まとめ
日米交渉は期限切れとなり、開戦決意。
アメリカは中国からの撤兵を要求していた。
追加
ただ、この本は読まれたし。(続編の「日本は誰と戦ったのか」も秀逸)
歴史学会ではあまり言われていないが、日米開戦にはコミンテルンが裏で動いており、
ルーズヴェルトは、「嵌められた」。
日本は誰と戦ったのか[新書版] コミンテルンの秘密工作を追及するアメリカ (ワニブックスPLUS新書) [ 江崎道朗 ]価格:1,012円 (2021/4/1 10:32時点) 感想(2件) |
日本は誰と戦ったのか コミンテルンの秘密工作を追及するアメリカ【電子書籍】[ 江崎道朗 ]価格:1,273円 (2021/4/1 10:33時点) 感想(0件) |