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☞「陸軍士官学校事件(1934年)からの相沢事件(1935年)」

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「陸軍士官学校事件(1934年)」からの「相沢事件(1935年)」です。

「皇道派」と「統制派」の対立は「二二六事件」ではなく、「相沢事件」がピークと考えても良いのではないでしょうか?

(「二二六事件」で統制派が青年将校グループの標的になっていないでしょう。)

こちらを参考にさせて頂きました。

【年表】永田鉄山軍務局長就任(1934年)~相沢事件(1935年)

1934.01荒木の後任として陸軍大臣に林銑十郎が就任。(※1)
1934.03永田鉄山、軍務局長に就任。(※2)
1934.11.10陸軍士官学校事件(※3)  

クーデターを画策したとして皇道派青年将校、陸軍士官学校生徒が逮捕。逮捕された村中孝次、磯部浅一は統制派の陰謀と逆に告訴。  

※ちなみに当時の士官学校中隊長は辻正信。彼が情報収集。  
→林銑十郎は教育総監真崎甚三郎の罷免を要求
(→1935.7、本人の受諾は得られなかったが決定。)
渡辺錠太郎を後任に。
1935.04.06真崎甚三郎が国体明徴の訓示を通達(※4 国体明徴運動)

右翼運動と連動して帝国在郷軍人会が活動して天皇機関説を批判。岡田内閣に国体明徴声明を出すことを求め、求心力の増加、逆境の逆転を目指そうとした。
1935.08.12相沢事件 (※5)

真崎罷免の元凶が永田鉄山とみた相沢三郎中佐が単身、永田鉄山刺殺。
1935.09.05責任をとって林銑十郎辞任。(※6)

比較的皇道派に近い川島義之が後任。  

※真崎は川島への遠慮、そして10月に国体明徴運動が収束したことから、その後、さらに求心力低下。皇道派は拠り所を失う。

(※1)荒木貞夫、辞任。

荒木貞夫、真崎甚三郎とその取り巻きたちを「皇道派」と言いました。

荒木貞夫は自宅で何度も部下に酒をふるまうなど、そのオープンな性格から若い将校たちに大変人気があったと言います。

しかし、問題点は「自分の気に入った人間しか取り立てなかった」ことでした。

そんな荒木でしたが、実務能力には乏しく、自分が取り立てた部下たちを抑えることができなくなり求心力を失っていきます。

そして、体調を崩して辞任。

後任には真崎甚三郎を推薦しましたが、誰からも認められませんでした。

(※2)永田鉄山、軍務局長に

林銑十郎陸相により永田鉄山が軍務局長に就任します。

「統制派」という言葉が良く使われますが、「統制派」という派閥はなく、皇道派(荒木・真崎派)以外が「統制派」と考えた方がわかりやすいかも知れません。

(既成政党に対しては統制派も皇道派も団結しているように、統制派と皇道派が常に争っていたという図式で見ない方が良い。)

そして、「統制派」のリーダーが「永田鉄山」と言われますが、彼が実質的にリーダーであったのは、軍務局長就任から、相沢事件で刺殺されるまでの1年半です。

元々は反宇垣として荒木を推しておりましたが、外交政策が異なるため反目します。

(※3)陸軍士官学校事件

ここでのちに有名な「辻政信」が出てきますが、ひとまずおいておきましょう。

(ちなみに上官は東条英機。)

結論から言いますと、陸軍士官学校でクーデターを画策したとして、皇道派の青年将校が逮捕された事件で、

その責任をとって、教育総監・真崎甚三郎が更迭された事件です。

(※当時の陸軍の主要ポストとしては陸軍大臣、参謀総長、教育総監。1931年~1940年までの参謀総長は閑院宮。)

(※4)国体明徴運動

天皇機関説問題に端を発した国体明徴運動は、真崎甚三郎が一発逆転を目指したもの、という見方がされています。

(統制派主要メンバーは岡田内閣と緊密な関係を築いていました。)

(※5)相沢事件

当時、真崎罷免の黒幕が永田軍務局長であるという怪文書が出回りました。

これをもとに、憤激にかられた相沢三郎中佐が永田鉄山を刺殺します。

相沢は青年将校グループとも真崎とも親しい人物でした。

相沢三郎中佐。1889年~1936年。宮城県出身。陸軍士官学校卒(22期)。
剣道・銃剣道の達人で教官。

(※6)皇道派の凋落

相沢事件の責任で林銑十郎が辞任します。

後任にはバランスをとって比較的皇道派に近い川島義之が就任しました。

しかし、川島への遠慮、国体明徴運動も終息したことから、真崎は求心力低下します。