~只今、全面改訂中~

☞【そして、秀吉の“家来”に。】『戦国期足利将軍研究の最前線』(山田康弘編、2020年)

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、『戦国期足利将軍研究の最前線』の、第3部:「たそがれゆく足利将軍家」です。

もしかすると将軍家を再興することができたかも知れないのは、13代将軍足利義輝でしょうか。

しかし、思うように力を発揮する前に、その力を恐れた三好の跡取りによって斬殺されます。(三好も長慶の死以降、身内の病死が相次ぎ危機を迎えていた)

その弟、足利義昭は紆余曲折を経て、「秀吉の家来」になるのです。

§913代将軍・足利義輝は、なぜ殺害されたのか?(山下真理子)

(はじめに)

1565年5月19日、義輝が京都の将軍御所で暗殺される

三好義継(1549?~1573、三好家当主)、松永久通(1543~1577、久秀の息子)らによる。

♨義輝も30歳。義継は16歳くらい、久通は22歳。ずいぶん登場人物が若い。その分、血の気も多かったのか??(→コチラへ

★各地の地方大名も衝撃を受ける。

(三好長慶との戦いに苦しむ将軍義輝)

★細川氏に代わって畿内で勢力を拡大してきたのが三好氏。三好はもともとは阿波の細川氏の家来であった。

細川澄元(1489~1520、政元の養子の1人)が細川宗家を相続したことを機に細川氏は畿内進出。

★澄元の息子が晴元(1514~1563)。

彼を主君に仰いだのが三好長慶(1522~1564)。

しかし、長慶の伸張に脅威を抱いたことから次第に対立。

ついに両者が激突。(1549、江口の戦い)

これにより晴元と将軍義輝は近江国へ逃亡。

義輝は晴元と手を切り、三好長慶と和解することで京都帰還(1552)

しかし、義輝と長義が1年ももたずに対立、再び義輝は晴元と手を組む。

しかし、またも三好に敗れ、高島市朽木へ避難すること5年間。

1558年、兵をあげ、ようやく和解に至る。

(再び対立する将軍義輝と三好氏)

★義輝が政所トップの伊勢貞孝に注文をつけようとするのを松永久秀(1501~1577)がとめるという一件も。義輝は久秀に激怒。

★1561年~、長慶を支えた弟たち、息子が相次いで死去。本人も死去。これで三好一門は弱体化。松永久秀は義輝の娘を人質にとるなど義輝を警戒していた。

【必見】(義輝の殺害理由をめぐる2つの説)

★対立する学説2つ。新たな将軍擁立を狙っていたという説と、殺害など考えていなかったという説

★三好は義栄ではなく、義昭を擁立しようとしたという説もある。松永久秀はいち早く義昭を保護。

★家臣が将軍御所を取り囲むという行為はしばしばあった。「御所巻」という。義政も側近排除を目的として大名たちに御所巻されている。

ルイス・フロイスの書状によれば三好は義輝側近排除を目指していた、と書いていることから、義輝が拒否して戦いになったのではないか、と言う。

(おわりに)

★いずれにしても、三好は将軍義輝を殺害しても自分が将軍とはなろうとしなかった

§10.足利義昭と織田信長の微妙な関係とは?(木下昌規)

(はじめに)

★最新研究で義昭像に変化が。信長の傀儡というわけではなかった。

(義昭はどのようにして上洛し、将軍となったのか)

★永禄の変ののち、義昭は奈良を脱出して近江へ。ここで各地に書状を出して自身の将軍就任に協力を求めた。

★当時、最も期待されたのが支援を明確に宣言した信長。しかし、美濃の斎藤達興(1548~1573)と抗争中で十分に支援できる状況ではなかったため、義昭は信長と龍興の和睦を周旋した(1566)。

★これで上洛すると思いきや、やはり信長は斎藤が不安であったため和睦破棄し再び戦闘へ。義昭は父・義晴の代から縁のある越前・朝倉のもとへ。

★しかし義景はなかなか動かず。その間に義栄が将軍就任

1568年、斎藤を滅ぼした信長から再び義昭へ遣いが送られ、上洛へ。義昭が将軍就任

(上洛後、義昭と信長はいかなる関係にあったのか)

★「天下布武」とは「京都、畿内を制覇したい」という意味。

当初は互いに補完関係にあった。義昭は信長の軍事力に助けられたし、信長も浅井朝倉、本願寺、三好三人衆、六角に包囲されたときは義昭に助けられた。

信長は義昭を主君と考えていたと考えられる。

(決裂する義昭と信長)

★1572年、武田が家康領に侵攻。信長は激怒。宣戦布告。武田+畿内の反信長vs織田・徳川・上杉となる。

1573年、義昭が挙兵。武田派に鞍替えしたのだ

足利義昭

★しかし、武田信玄死去で全て狂う。信長は反転して義昭を降伏させる。

信長は義昭との和睦を望み、秀吉を送った。しかし、義昭は信長側からも人質を要求したため秀吉が激怒(!)。交渉は打ち切りとなった

★協調関係にはあったが、友好関係ではなかった。

§11.江戸時代に生きた足利将軍の末裔(小川雄)

(はじめに)

★1597年、義昭死去。しかし、義昭には男子がおり、「平島足利家」「喜連川足利家」が存続した。

(最後の将軍・義昭の子息はどうなったのか)

★義尋(ぎじん)という僧侶となる。1572~1605.信長の人質となっていたが、本能寺で信長が死去。

義昭は秀吉に近づく。そして秀吉に許され帰京。1587年頃である

★義昭は秀吉から1万石の所領も得、義尋は興福寺に勤めることとなる。のちにトップにもなる。

★義昭の生前は還俗しなかったが、義昭の死後、義尋は還俗して2人の男子をもうける。義尊と常尊であるが、2人とも僧侶となる。

(生き残った「平島足利家」の歩み)

★義栄の弟(義助:1541~1592)を祖とする。豪族として暮らしていた。

徳島藩蜂須賀氏は足利の名を名乗らせず、明治時代まで至る

★1805年、待遇改善を訴え阿波を離れたものの、決して成功したとは言えない。

(生き残った「喜連川足利家」の歩み)

★尊氏の次男、基氏(1304~1367)を祖とする。

★北条氏をスポンサーとしていたため、秀吉の小田原攻撃がピンチであったが、秀吉の保護により存続する。

★栃木県の喜連川を本拠地とすることとなった。江戸幕府となると家康により厚遇。これは平島家とは異なる扱い。しかし、足利の姓は名乗らせなかった

★江戸後期に血脈が途絶え、斉昭の息子、慶喜の弟を養子に。妻には松前崇広の娘。明治になり足利を名乗る。爵位も得る。

(「足利のご落胤」があらわれる)

★本当かどうか疑わしいが、足利の逆臣とみなされないために熊本の細川氏により厚遇される。

★ただ、やはり苗字は使わせてもらえなかった。

この時代は、教科書にはほとんど載っておりません。

三好長慶がどんな人だったとか、足利義輝がどんな人だったとか、本書を読むことでようやくわかりました。

是非、本書を!

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