こんにちは。
今回ご紹介しますのは、渡辺京二先生の『バテレンの世紀』より、第4章、5章。
日本での布教活動初期の話です。
まず、イエズス会の戦略はその国のトップを改宗することでした。
しかし、ザビエルが来日したとき、足利将軍は三好と戦って京都を追放されるなどしていた時期で、政局は不安定でした。
ザビエルは誰を改宗させれば良いのかもわからないまま、日本を去るのです。
ただ、日本では、私の生涯でもこれほどの霊的な満足感を受けたことは決してなかったノデス。
日本人ほど優れた異教徒はイマセン。
ザビエルは仏僧や訪問客から何度も論戦を挑まれたり、精魂尽き果てていたといわれます。
おまけに寒いし、食事は少ないなどの問題もあったようでした。
兎にも角にも後任にはトルレスが指名されました。
ザビエルからトルレスへ
ザビエルと一緒に日本へ来たトルレスが布教長を継いで、大内氏のもとに身を寄せておりましたが、いきなり陶晴賢の乱を経験します(1551年)。
さらに、毛利元就により再び戦乱を経験します。(1555年、厳島の戦。)
命の危険にさらされたトルレスは山口を諦めて、豊後に行きます。
1510年生まれ。ザビエルと共に日本へ。
ザビエル帰国後は布教長を継ぐ。
「適応主義」(日本人に合わせるやり方)によって日本における布教の礎を築いた。
豊後では、アルメイダが加入することでこれまでの活動から発展しました。
1525年ポルトガル生まれの改宗ユダヤ人。医師免許取得後、貿易にも乗り出し、富を築く。
1555年、豊後にて私財を投じて乳児院を建て、1557年には病院を建てる。(日本最初の西洋式病院。)
イエズス会の方針としては布教と商売を切り分けることですが、そんなこと言っていたら宣教師の生活が成り立ちません。
商人でもあるアルメイダが加わることで、その人脈から宣教師の活動費が賄えるようになりました。
さらに、アルメイダはポルトガル船が入港する土地にも影響を与え、貿易の利を得ようとした大名と交渉しました。
その結果、村民全員をキリシタンに改宗する代わりに、大村純忠領の横瀬浦を寄港地にすると決定します。
(※しかし、寺社仏閣破壊したものたちと、旧勢力の間でトラブルが発生したため1年で移動。)
このように、初期の九州では貿易を目的にキリシタンに転じる「見かけ」のキリシタンが主でした。
ヴィレラ、都で苦闘す
一方、京都。
平戸に来たものの、寺社仏閣を破壊して領主らとトラブルになって平戸を追われたヴィレラが入京しました。
1525年ポルトガル生まれ。1557年、平戸に赴任したが寺社仏閣を焼いたりしたため僧侶と対立、領主松浦隆信から追放処分を受ける。
(この件で平戸港が閉鎖となり、横瀬浦が選ばれる。)
のち、京都に赴任するが、相次ぐ戦乱により避難生活を余儀なくされる。
しかし、避難先などで、信者獲得。この中には高山右近などもいる。
これらの布教には、盲目の日本人「ロレンソ」によるところが大きい。
将軍義輝に布教許可をもらったことが教科書では記されている。
「ロレンソこそ日本キリシタン史史上最高の説教使」とフロイスは言っている。
畿内では国人層の入信が相次ぎました。
彼らは貿易などの利害ではなく、純粋な気持ちで入信したものが多かったようです。
(これが九州との違い)
あくまでも当初の話。
ヴィレラは義輝により布教許可を得るも・・・
戦乱からの避難で布教どころではなかった。
その中でも「ロレンソ」の活躍で信者拡大。