こんにちは。
今回ご紹介しますのは、『バテレンの世紀』より、秀吉時代のまとめです。
秀吉時代に「伴天連追放令」(1587年)が起き、さらに「サン・フェリーペ号事件」(1596年)によって伴天連追放令が再公布されました。
信長の時代にキリシタンが保護されたことを考えますと青天の霹靂でしょう。
そんな秀吉も1598年に死去し、一時代が終わります。
まずは、信長の死去から秀吉の死去までの年表を。
年表
1582 | 本能寺の変(明智光秀が織田信長を倒す) 山崎の戦(秀吉が光秀を倒す) |
1583 | 賤ヶ岳の戦い(秀吉が柴田勝家を倒す) オルガンティーノ、秀吉に謁見。大坂に土地を提供される。 カブラル離日 |
1584 | 小牧長久手の戦い(秀吉と家康の戦い、やや家康有利で終戦) スペイン系修道士の乗った船が平戸に入港する。 蒲生氏郷、黒田孝高ら有力大名が入信する 沖田畷の戦い(龍造寺、大村vs島津、有馬) |
1585 | 惣無事令 伊東マンショらローマ教皇に謁見 |
1587 | 秀吉、九州平定(秀吉が島津氏を倒す) 秀吉がバテレン追放令発布、高山右近改易。 オルガンティーノ、小西行長の領地小豆島に隠れる。 ※日本人によるフィリピンのスペイン政権転覆クーデター(未遂) |
1588 | 海賊停止令 |
1590 | 秀吉、全国統一(秀吉が北条氏を倒す) 天正少年遣欧使節、帰国。 ヴァリニャーノ再来日。(この2ヶ月前にコエリョ死亡) |
1591 | ヴァリニャーノ、遣欧使節と秀吉に聚楽第で謁見 |
1592 | 文禄の役(秀吉、朝鮮出兵) ※本陣は肥前の名護屋。 (宣教師たちが避難していた場所に近い!) ※秀吉、フィリピン総督に臣従を促す書簡を送る |
1593 | フランシスコ会、都に進出 豊臣秀頼誕生 ※文禄の役が休戦 |
1595 | 豊臣秀次謀反事件 |
1596 | サン・フェリペ号事件。→フランシスコ会宣教師捕縛 |
1597 | 長崎西坂でキリシタン殉教(日本26聖人) 慶長の役(秀吉、再度朝鮮出兵) |
1598 | ヴァリニャーノ(3回目)来日 秀吉没 |
なぜ、そのようなことが起きたのかと言いますと、
フィリピン貿易に携わる原田喜右衛門という商人が、
代官を通じて秀吉に
「フィリピンの防備は手薄だから威嚇すれば容易に服属させられる」
と進言したことによります。
これを真に受けた結果、秀吉は威嚇的な文章をフィリピン総督に送り付けたのです。
一方、スペイン(フィリピン)は日本を警戒するようになります。
警戒は秀吉死後も続きました。
戦国の世を経て日本の武士は最強だぞ。
負けるとは1ミリも思ってないわっ!
まあ、いいんですけど。
実際にフィリピンの防備は比較的「手薄」でした。
本国スペインからの派兵も限界があり、日本人傭兵に頼らなくては維持できないほどだったようです。
また、1587年には日本人が武器と兵士を持ち込んで原住民、イスラム勢力と結託してスペイン人を追い出すという計画もありました。
首謀者は平戸藩主の松浦鎮信という可能性も指摘されています。
いずれにしても秀吉の九州平定で松浦氏がフィリピンに手を伸ばす余裕はなくなりまったので、この計画はなくなりました。
日本の一大名がそんな計画を立てるあたり、いかに日本が軍事的に自信を持っていたのか、考えるとすごいですね。
マニラで活躍する日本人商人・原田喜右衛門、原田孫七郎らは、さらなる利権を狙っていたとも考えられます。
そんな秀吉も、1598年、永眠します。
「伴天連追放令」を受けましたが、キリシタンたちは秀吉に対して、決して否定的ではありませんでした。
ルイス・フロイス
「彼が日本に平和をもたらした。」
フランシスコ・パシオ(準管区長)
「先見の明があり聡明」
アビラ・ヒロン(「日本国記」著者、商人)
「彼はわれわれのいわば父であったから皆心から悲しんだ。パードレたちを迫害したのを除けば、彼は我々に何の害も与えず、それどころか庇ってくれた。」
あと、宣教師追放っていっても「あえて」徹底しなかったでしょ。
キリシタンの近くに黒田勘兵衛だの小西行長だのキリシタン武将を配置しているのもその表れじゃよ。
これが「政治」ってもんじゃ。
もっとも、家康公もそうじゃが、わしも南蛮人の武力なんてものは、全く恐れていない。
これ、この時代のポイントじゃ。
250年後のペリー来航の時とやらもワシがいてやれば良かったな。ハッハッハ。