~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【信長・秀吉略年表付で紹介】『合戦の日本史』(伊東潤らの対談、2017年、文春文庫)

1574年」、伊勢長島一向一揆を信長が鎮圧
これにより、東に鉄砲の火薬の原料が届かなくなる。
そのため、「1575年」、武田氏が「長篠の戦」を仕掛けた。

しかし、長篠の戦で武田が滅んだわけではない。
武田氏が滅んだのは「1582年」の「天目山の戦」。
本能寺の変」もこの年でもある。

それまで東の防波堤として機能していた徳川家康を京都に呼び寄せて抹殺しようとしたところ、逆に光秀と家康の密約で「本能寺の変」を起こされてしまったという「陰謀論」が存在する。

1.天才か狂人か?信長の夢

信長略年表

1534 尾張にて出生
1551 父・信秀の死により家督相続
1556 稲生の戦い。弟一派の謀反を防ぐ

美濃では長良川の戦で道三が義龍に討ち取られる。
1559 尾張統一

(♨尾張を統一するまで8年もかかっている苦労人であったりもする)
1560 桶狭間の戦
1561 義龍急死。息子の龍興が相続。これを機に美濃侵攻。
1567 美濃攻略。7年の苦労。稲葉山城を岐阜城と改名。

(♨家督を継いでから尾張美濃2国を得るのに16年。)
1568 足利義昭、室町幕府15代将軍となる
1570 金ケ崎城の戦、姉川の戦。石山合戦始まる
1571 比叡山焼き討ち
1573 浅井・朝倉滅亡
1574伊勢長島一向一揆平定
1575 長篠の戦

(♨長篠の戦は有名だけど、武田家が滅んだのは1582年の天目山の戦!
1576 天王寺合戦で石山本願寺を破る
1578 荒木村重謀叛
1580 ポルトガルがスペインに併合される
1582 武田家滅亡、明智光秀に本能寺の変で討たれる

<うつけ少年時代の真実>

信長のイメージは江戸時代に作られた

父・信秀は織田大和守家に仕える三奉行の1人でした。

しかし、実質的には尾張の筆頭人でもあります。

「所領のない」信秀が大きな軍事力を持てたのは、「伊勢湾の海運」と「木曽川の水運」を配下においていていたから考えられています。

戦国時代は産業の生産性が飛躍的に向上した時代で、商品の流通が活発でした。

また、当時、京都は疲弊していましたが、東国は安定していました。

東国の物資は太平洋⇒伊勢湾⇒津島、熱田で水揚げされます。

それによる莫大な関税収入を得ていました。

また、木曽川上流を押さえていた生駒氏という商人を取り込むことで、堺へのルートも開いていました。

そんな環境で育ったから経済センスは自然と身についていたんじゃろうな。

信長は「うつけ」と呼ばれますが、16、17歳くらいまでは普通に勉強していました

しかし、父が倒れ、側近が弟に跡を継がせようとしたことと、不良化した時期が一致しています。親衛隊づくりをしていたのでしょうか?

1551年に家督を継いだ信長は、1556年「稲生の戦」で弟一派の謀反を防ぎます。

この時、信長軍700、信行軍1700でした。

しかし、前田利家、佐々成政の活躍もあり勝利します。

というか、わしのおかげじゃろう。

他のイメージが強すぎるので、みんな言わないのかも知れないが、わしは軍事の才があるのじゃ。

わしほど勝負強い男もおるまい。

(あれ、意外と負け戦もあったような・・・。それに、最後、絶対油断してたでしょうし・・・)

一向宗、比叡山との争いは経済問題も絡んでいます。

木曽川の水運を牛耳る門徒たちが税金を払わないこと、広大な荘園をもっている比叡山が税金を払わないことが許せなかったのです。

<桶狭間に仕掛けた罠>

これは真正面からぶつかった戦

神社の札売りを情報網に使ったと思われます。

♨本当は正面衝突でしたが「桶狭間は奇襲だった」と<日本戦史>に書かれています。
これが日本の真珠湾攻撃の遠因になったという可能性も指摘されています。【日露戦争の真実】も是非。

★1554年の村木城の戦でも使用しているので、おそらく鉄砲も使われているでしょう。

★エドワード黒太子とは類似性をもちます。彼も3倍ものフランス軍を破りました。これで世界がひっくり返ります。

兵農分離、土着化を防いだことが画期的です。

→「武士の鉢植え化」を狙ったことが明智光秀の本能寺を生んだという説は【コチラ】。

<神になろうとした男>

★中央集権体制は信長、秀吉と明治以降だけ。
日本は中央集権を嫌う

御恩奉公システムがあるというのは日本と欧州のみ。風土的に似ている。

★信長は南蛮人から戦略なども教わっていた?

★1588年、スペインがイギリスに負けているが、スペインは当時、カスティリーヤが中心で、陸軍主体。イギリスが勝ったのは奇跡ではない。この隙に日本はマカオくらいまで行けた可能性はある。

伊勢長島を抑えることで、武田家は焔硝が手に入らなくなります。

そのため武田氏が、戦争を仕掛けます。

長篠の直前まで武田家は徳川家に対して圧倒的に優位でした

♨武田先生の書籍【コチラ】にもありますが、1574年の一向一揆平定と、1575年の長篠の戦は関係しております

1582年の天目山の戦で武田家が滅びます。

そのため、東の防波堤として機能していた徳川家康が不要になり、京都に呼んだ最中に起きたのが「本能寺の変」、、、という説があります。

一見、信憑性がありそうですが「陰謀論」でしょうか?【コチラ

★権威の重要性には気づいていたであろう。安土城はまさにそれ。【コチラ

<明智光秀と本能寺の謎>

★旧体制システムを理解している光秀とはずっと二人三脚でやっていける可能性を秘めていました。

★ある時点までは天皇から将軍を受けるつもりだったのであろう。

★分国的な社会は外圧に弱い。元寇、黒船。もし信長によりいち早く中央集権国家が築かれていたらどうなっていたのかは誰もわからない。

2.豊臣秀吉 その野望と謎

秀吉略年表

1537 尾張にて生誕。(信長の3歳下)
1557 この頃、信長に仕える
1567 軍師に竹中半兵衛を迎える
1570 金ヶ崎城の退き口 姉川の戦い
1579 別所長治の籠る三木城兵糧攻め
1582 本能寺の変 
山崎の戦
1583 賤ヶ岳の戦い
1584 小牧・長久手の戦い
1585惣無事令
1587 九州統一
1588海賊停止令
1590 北条攻め 天下統一
1592 文禄の役
1593豊臣秀頼誕生
1595豊臣秀次謀反事件
1596サン・フェリーペ号事件
1597慶長の役
1598 伏見にて死去

★信長との関係が悪化したイエズス会が後継者として考えていた可能性はないか?

★近いのはカエサルか?ナポレオンか?

後期倭寇の王直が五島列島や平戸に拠点を置いて、朝倉家や上杉家に硝石を持ち込んでいたが、1557年、明国につかまって殺された。これが朝倉家没落の遠因。

★秀吉の朝鮮出兵にはスペインの後押しもあった?

3.関ヶ原、そして徳川幕府へ

★信長は直線的、秀吉は多角的、家康は螺旋的。

★浄土宗から教わった平和な世界を目指していた。

★近いのはアウグストゥス?

★法治主義。

★江戸に幕府を開いたのは革新的。

★東国政権はまず「国内のマーケットを」となる。

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