こんにちは。
今回ご紹介しますのは、渡辺京二先生の『バテレンの世紀』(2017年)の第6章、7章。
九州と畿内の布教がその後どうなったかです。
ザビエルからトルレスに布教長が変わった時代【コチラ】、
九州では付随する貿易を目当てに領民をキリシタンにする領主がいました。
一方、畿内では政情不安も伴い大苦戦します。
ロレンソの活躍もあって高山右近の父ら、国人層に活路を見出すのですが、
東方から思いもよらぬ支援者が出現します。その名も織田信長です。
平戸から大村領・長崎へ
まずは九州の話からです。
平戸から横瀬浦、福田を経て、長崎が寄港地と決定しました(1570)。
(イエズス会側にも問題があったにせよ)
いろいろ難航したんですね。
領主の大村純忠は四方を敵に囲まれていたため、ポルトガル船の貿易に活路を見出しました。
イエズス会はイエズス会で、他にもっと安定した領主が欲しかったのですが、
どの大名も信用ならず、また測量の結果、長崎が良港であることが判明したため、大村純忠を選ぶことになりました。
トルレスの死
しかし、1570年はイエズス会にとっても大きな出来事がありました。
これまで尽力してきたトルレスの死です。
彼は体も大きかったが人柄も大きかった。
彼の死をもって宣教師の1つの段階が終わった。
(※ザビエルはただ手を染めたにすぎない)
カブラルの「反・適応主義」
一方、次に布教長となったカブラルはトルレスとは正反対でした。
権威主義的な性格で、イエズス会の理想の姿を実践するために「絹服の着用禁止」、「貿易関与禁止」などを決定します。
しかし、宣教師たちは従いません。
彼らは日本人に溶け込むために絹服を着て、教会の維持のため貿易に関与していました。
(いつ届くかわからない国王の扶助金など当てにはできませんもんね。)
ところが領主大村純忠はカブラル、その下で働くコエリュらの「神仏破壊」を受け入れます。
(キリシタンにとって神仏は「偶像」であり、「破壊すべき対象」でした)
前領主の墓はひっくり返されて、骨が川へ流された。
1533年、ポルトガル生まれ。旧家出身で、インドでキャリアを積む。トルレスの後を受けて来日するや、それまでの「適応主義」を撤廃。
とにかく日本人嫌いで、日本人がイエズス会でキャリアアップすることをさせないようにしたのだが、これは日本人宣教師が誕生したら、自分たちの立場が危うくなると考えていたからであろうか。
「私は日本人ほど傲慢、貪欲、無節操、かつ欺瞞にみちた国民を見たことがない」と言う言葉も残す。
のち、天敵となるヴァリニャーノに解任されるが、11年間の日本滞在中に、信者が3000人から12万に増加したことを自分の功績だと吹聴する。
1609年死去。
他の九州地方はどうなっていたのかと申しますと、特徴的なのが天草です。
当時、天草は5つの小国に分かれていましたが、熱心な領主の影響もあり、領内に35の教会を有するほどの理想的なキリシタン領国となっていました。
信長、バテレンを庇護す
続いて畿内の様子です。
この時期に、重要な役割を果たした日本人武士は、和田惟政です。
彼はキリシタン史上最も不思議な人物と言われておりまして、
「信者でもないのに、信者を匿うのに熱心」という人でした。
(それも、かなり熱心。)
和田惟政はなんとヴィレラやロレンソたちと畿内で行動を共にしていた「ルイス・フロイス」と、入京してきた信長を引き合わせたのです。
フロイスらにとっては庇護者を得ることとなり、
信長にとっても、フロイスらを通じて世界への視界が開けるというメリットがありました。
それより、フロイス、あそこにいる偽善者(仏僧)を見よ。
彼らは民を欺きおのれを偽り、虚言を好み傲慢僭越のほど甚だしい。
予は彼らを殲滅しようと何度も思ったが、民を動揺させぬため我慢しているのだ。
おぬしらの方があるべき姿じゃ。
その後、日乗(元武士)と、ロレンソの宗論がありました。
日乗は朝廷とも結びつきがあったため、大きな顔をしていましたが、ロレンソに歯が立ちません。
悔しい日乗は宣教師に圧迫をかけますが、ここでも和田惟政が保護します。
その後も圧迫が続きますが、信長が日乗を追放することで終止符が打たれました。
だって、浅井・朝倉に石山本願寺、長島一向一揆を敵に回して、おまけに武田信玄まで挙兵しちゃったよ。
三好三人衆とか六角も邪魔だし、荒木村重は謀反するし。
まあ、それでも負けなかったことがワシが日本史史上に名を残した理由ですがな。
フロイスとの関係はこの後も続くぞ。
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