こんにちは。
今回ご紹介しますのは、『バテレンの世紀』第8章、9章。
ひきつづき、九州と畿内、それぞれの布教の進捗状況を紹介します。
九州では大友宗麟、有馬晴信、大村純忠と言った「キリシタン大名」が誕生しましたが、島津や龍造寺といった「非キリシタン大名」に押されていました。
一方、畿内では信長の庇護のもと、オルガンティーノ(フロイスの友人)が手腕を発揮し信者を増やします。さらには信長の許可を得て安土城にセミナリヨ(神学校)を建てました。
また、ヴァリニャーノ来日(1579年)によりイエズス会の方針が画期的に変革し、「適応主義」が復活しました。
カブラル時代と異なり、イエズス会における日本人の立場も守られるようになりました。
豊後キリシタン王国の夢
大友宗麟
1530年、豊後に生まれます。
大友家の家臣団は代々決してまとまりが良いとは言えず、宗麟は苦労しました。
さらに妻が宮司の娘であったり、寺社勢力と家臣団が結びついて反乱を起こす恐れもあったため、南蛮貿易による利を求めるも、なかなか入信しませんでした。
1577年に離婚し、1578年に隠居することで、ようやく洗礼を受けました。
彼の本物の「回心」は、内外に衝撃を与えます。
しかし、1578年、北上する島津氏に「耳川の戦い」(@日向国)で大敗北。豊後へ敗走します。
(この戦いにはカブラルやアルメイダも同行しており、カブラルは敗色濃厚でも戦うべきと進言しましたが・・・)
唯一の救いはこの戦で多くの反キリシタン武将が討ち死にしたことでした。
有馬晴信
1567年生まれ。肥前国。
大村純忠は叔父にあたります。父の義貞も入信していました。1580年に入信。
龍造寺氏の軍門に下っていましたが、のちに沖田畷の戦い(龍造寺、大村vs島津、有馬、1584年)で勝利。
以後、秀吉の伴天連追放令が出るまでキリシタンを保護しました。
マカオ事件は家臣がマカオで暴れて殺されたので、その復讐として、デウス号を襲撃した事件です。デウス号船長は積み荷を取られまいと自沈しました。
岡本大八事件は家康が禁教に踏み切った大きな事件ですが、本多正純の重臣である大八が有馬氏の所領回復を依頼されて金品も受け取っていたが実行せず、裁判になった件です。
しかし、問題はこれで終わらず、有馬氏が長崎奉行を殺害しようとしていたことが暴露され、有馬氏も処刑されました。
有馬晴信も岡本大八もキリシタンであり、キリシタンによる侵食を家康は嫌悪したのです。
大村純忠
1533年、肥前国生まれ。1563年、日本初のキリシタン大名となります。
1561年の横瀬浦開港、1565年の福田開港、1570年の長崎開港に関わりました。
(平戸の松浦隆信とはこの点でもライバル。)
のち、龍造寺氏に押される形で軍門に下りますが、長崎まで取られないようにするためにイエズス会に寄進しました(1580年)。
龍造寺氏も貿易の利を得たかったので、純忠は殺されませんでした。
しかし、そういった作戦面にまでイエズス会が意見していることを考えると、かなり両者の関係は深いのでしょうね。
ヴァリニャーノ入京
一方、畿内では東インド管区巡察師の地位にあったヴァリニャーノが入京しました。
これまでのカブラルの「反・適応主義」を改める方針を打ち立てました。
(カブラルからは抵抗に遭いましたが)
1539年、イタリア生まれ。1566年、イエズス会入会。エリートコースを歩み、1573年、東インド管区巡察使に大抜擢。
弟子のマテオ・リッチは中国に派遣し、自身は日本へ(1579年)。日本人の資質を高く評価し、カブラルの「反・適応主義」を改め、「適応主義」をとり、画期的な改革をもたらす。
「天正遣欧使節(1582年)」派遣もプロデュース。
信長らにも謁見(1581年)。
ヴァリニャーノ殿には安土城も見てもらった。
九州のキリシタン大名たちは劣勢でしたが、畿内は信長の庇護と畿内の布教を担当したオルガンティーノの手腕で隆盛に向かいます。
1580年、オルガンティーノは安土城内に神学校を建てることを許可されました。
神学校には信長も時々訪れて、ヴィオラやチェンバロの音色を聞いていたそうです。
私と同じイタリアンです。
1533年、イタリア生まれ。
1570年来日。明るい性格から多くの日本人に愛された。
信長、秀吉とも懇意。
信長の許可を得て安土城にセミナリオ(神学校)を建てる。