【第5章 まとめ】
★国家予算の4.3%がつぎ込まれた戦艦大和は、当時世界最強の戦艦。数的な不利を射程距離で補おうとして造られたものでもある。
★しかし、時代は航空主兵に変わってきており、大和はその威力を発揮できぬまま沈没させらてしまった。
★ただ、使い方によっては十分威力を発揮できたはずだ。米国は戦艦の任務を変更することで効果を発揮させたが、日本はその運用を誤った。これは現在にもつながる日本の病理でもあると思われる。
第5章:戦艦大和は不沈艦だったのか?沖縄海上特攻、最後の戦果は撃墜3機
★1945年4月7日、戦艦大和は九州坊の岬沖で航空攻撃を受け、乗員2740人とともに撃沈。
メンツにこだわった海軍は「一億総特攻の先駆け」とうそぶいたが、上空援護のない状態での出撃は無謀でしかなかった。
この海上特攻で撃墜した敵機はわずか3機。世界最大の46センチ主砲が火を噴くことはなかった。
※【坊岬】は地図で確認しておきたい。鹿児島県の南西。
★これに対して米軍はわずか1分間に13本の魚雷を投下して次々と命中させるなど、実に効果的な攻撃を行う。
大和の特攻も既に解読されていて、情報戦で既に敗れていた。
大和側の死者は3721人、米軍12人。
内閣はここまで戦局が逼迫していたとは知らなかった。
★歴史をさかのぼると、1933年、大角岑夫海相により条約派の提督は一斉に予備役にされてしまった。(※世界的な傾向ではあったが、日本は軍縮条約を破棄)
航空主兵論を唱えたものもいたが、反対派を退け、大鑑巨砲主義に固執、大和建造に向かう。
大和は国家予算の4.3%がつぎ込まれた。これは現在の予算で考えるとリニアの建設費に匹敵。海軍は予算請求において架空計上も行って偽装している。(♨『アルキメデスの大戦』ってそんな話だったような…。)
★なぜ46センチ砲にこだわったのかと言えばスエズ運河を通る米艦の砲口は大きくても40.8センチと判断したため。数的な劣勢を射程距離で補おうとしたのだ。
もっとも、最大射程距離にいる動いている敵に命中させるのは至難の業であるのだが。(なんせ東京から厚木ほどの距離。)
★また、大和は係留しているだけで燃料を大きく消費。
★太平洋戦争開戦時、1941年12月10日、日本の航空部隊はわずか3時間で英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋艦「レパルス」を撃沈してチャーチルを悲嘆させた。
このように世界は航空攻撃の時代に突入していたのだが(奇しくも日本がそれを証明)、大和就役はその6日後。
★一方、米軍は時代の変化に順応。低速の戦艦を陸上砲撃の支援に、高速の戦艦を機動部隊の護衛にと、新たな役割を与えた。上空支援があれば戦艦は本来の打たれ強さを発揮。
★大和を軍港に係留し、「浮き砲台」にする案も出ていたが、天皇に「もう海軍に艦はないのか?」と言われて突撃決定。壊滅必至との結論も出ていたが、出撃命令が出てしまった。
決戦に向けて保存すべきと考えていた宇垣纒中将は無思慮に天皇に答えた及川古志郎(彼は重要局面でたびたび失敗している)を批判。
★大和は「片道燃料」であったというのは嘘だった。大和に使った4000トンの重油があれば、他にいろいろできたのに…という声も。
<インタビュー:山折哲雄(宗教学者)>
大和撃沈70年、「小さきもの」を守れなかった巨大戦艦
★大和とは日本そのもの。富士山とも共通性がある。1隻の戦艦としての存在を超えている。
★日本人は「巨大なるもの」を崇拝する傾向があるが、一方でその傍らにある「小さきもの」の存在に注意しなければならない。
★「パクス・ヤポニカ(日本の平和)」の時代には宗教的な権威と政治的権力のバランスがとれていた。強力な専制君主が現れた時は日本の危機である。西洋的な一神教を神道に求めて千年以上続いた神仏習合を捨てたダメージは大きかった。
★①人間とは何か、②日本人とは何か、③自己とは何か、これらを問い続けることで現代の難問に向かって欲しい。②だけでは、偏狭なナショナリズムに陥る。
♨この部分に激しく同意。追加すると、生物学の知識も当然必要。心理学、哲学も然り。日本史においても、世界史の知識は必須。世界の文化史も、文学も然り。我々は勉強することがたくさんある。
『太平洋戦争の新常識』(歴史街道編集部、2019年7月、PHP新書)より
戦艦大和は時代遅れ、と思ったのだが、やっぱり、知識を1つの書籍だけで得るのはいけない、とつくづく思った。2019年7月発売のこの書籍を見てちょっとビックリ。
§5:<戦艦大和は「時代遅れ」でも「無用の長物」でもない>(戸高一成先生)
★日本海軍を時代遅れとするのであれば、他の列強諸国は輪をかけて時代遅れであった。見落とされがちであるが、大鑑巨砲を求めたのは日本だけではなく、米英仏独も海軍軍縮条約の失行をにらんで同時期に新鋭戦艦の建造に着手していた。当時の戦艦に比べて、大和は最強である。
★また、航空戦を見抜けなかったというのは、当時、どの国もそうである。(そうなんだ…。当時の上層部=愚か、というイメージがつきまとうが、このあたりは大事な考えだと思う。)
★開戦時に日本海軍は最も先進的であったが、問題は戦艦の使い道を見失った点にあるのだ。航空部隊、機動部隊が大戦果をあげたことで、戦艦部隊が発言力を失ったこともある。0か100かに走るのは日本人の悪い面である。
★アメリカは航空戦時代の到来を見て、戦艦を上陸前支援砲撃など対地上砲撃に活用。実現しなかったが、「山本五十六が大和でガダルカナルに向かう」計画が実現していれば、戦局に大きな影響を及ぼした可能性が高い。
★大和問題は様々な示唆を与えてくれる。無用の長物だったのではなく、「せっかくの名刀を使いこなす腕がなかった」ことこそ反省すべきであろう。昨今の日本企業の苦戦、原発事故対応などを見て、今こそ運用の問題こそが日本人の弱点だと思えてならない。
♨手術支援ロボット「ダ・ヴィンチ」も然り。めちゃくちゃ高いので、「不要論」も当然あるのだが、「ダ・ヴィンチ」自体はすごく良いものだと思うので、やはり運用の問題なのであろう。毎日稼働するくらいで良いのでは、と思う。
§6:<ここで戦艦大和を投入すれば戦局は違った>(平間洋一先生)
★日本が愚かな戦をした、という認識しか残らないとすれば日本人にとって不幸。
【こうすればよかった:戦術的活用】
★どこで運用すべきであったかは、3つの場面が考え得る。
①ミッドウェー海戦
日本は機動部隊が一撃を加えてから戦艦部隊でとどめを刺すという、旧来の艦隊決戦思想に則って配置したため大和は空母機動部隊のはるか後方にいたが、やはり機動部隊とともに行動させるべきだった。
大和の通信設備は充実しており、ミッドウェーでの米軍の待ち伏せも傍受していたにも関わらず、肝心の機動部隊にそれを伝えることができなかった。
おかげで日本は虎の子の空母4隻を失う。
また、同行することによって、その防御力の高さから機動部隊の盾となっていたであろう。
②ガダルカナル島の戦
半年に及ぶこの消耗戦において、大和はトラック島に待機。
1942年10月、陸軍は高速補給船派遣を決定。
海軍は戦艦金剛と榛名で米航空隊拠点のヘンダーソン基地を砲撃。
この砲撃はかなりの成果をあげたが、航空隊は一部残存していたため、金剛と榛名が引き揚げた後に補給船団を襲い、壊滅させた。
もし、この初期の砲撃に大和も参加していれば大打撃を与え、ラバウルからガダルカナルへの長距離飛行を続けていた航空隊の負担も軽減できたのではないか。
ガダルカナルにおける日本の熟練搭乗員の損失はあまりに痛い。
③第3次ソロモン海戦(1942年11月)
実際の海戦でアメリカは最新鋭戦艦サウスダコタとワシントンを惜しげもなく投入して、比叡、霧島といった旧式戦艦を壊滅させたが、大和を投入していればもっと戦えたであろう。
【こうすればよかった:戦略的活用】
★また、戦略的な活用法として、以下の3つを挙げる。
①「抑止力」
その存在を明らかにして日米交渉に活用すべきという主張は開戦前からあった。
そもそも米海軍はハル国務長官ら対日強硬派、あるいはルーズベルト大統領に対して、可能な限り「日本とは戦わせないでくれ」と言っていた。
当時、米海軍はイギリスの支援に手一杯であったのと、熟練乗組員は太平洋に少なかったのもあり、これでは勝てないと考えていたのである。
もし真珠湾攻撃が遅れることになれば、ドイツの戦況を見て、同盟破棄などさまざまな手立てを考えることができた。
②「艦隊決戦」
やはり当初の戦略通り、真珠湾奇襲などせず、艦隊決戦に持ち込むべきだった。
もし、真珠湾を攻撃していなければアメリカも当初の戦略通り、マーシャル諸島を襲撃し、艦隊決戦となったであろう。
そもそも、大和の竣工を待ってからの開戦でも良かったではないか。
当時のアメリカ太平洋艦隊のキンメル長官は戦艦第一主義であり、航空部隊を甘く見ていた。
航空戦力比は日本が優勢であったため、航空部隊に対する備えは甘かったであろう。また、艦隊の命中率も日本海軍は米海軍をはるかに上回る。
③「インド洋投入」
インド洋はイギリスにとって重要な補給路。ここを断ち切れば、イギリスは窮地に陥ったであろう。
実際、英軍はインド洋に艦艇を派遣する余裕などなく、この作戦は成功確率が高かった。
これにより、北アフリカで快進撃をしていたドイツのロンメル将軍と、日本がスエズ運河を通じて中東でつながり、日本にも中東の石油が送られることとなったのではないだろうか。
そして、中東、インドで独立運動も起きたであろう。
★他にもラバウル航空戦で投入していれば、など枚挙に暇がない。
♨阪神タイガースが、全盛期であった藤川球児の出番がほとんどないまま、日本シリーズで負けた時のことをふと思い出した。
★大和略年表
1933 | 国際連盟脱退。 |
1934 | 大和建造計画が立てられる。(※1936年に海軍軍縮条約が失効することを見越し、アメリカと開戦した際を検討した結果、大和建造計画に至る。)(※1) |
1936 | 海軍軍縮条約失効 |
1937 | 11月、呉にて極秘裏に起工。 |
1941 | 12月16日、竣工。真珠湾攻撃の直後のことである。(※2) |
1942 | 6月、ミッドウェー海戦で初陣となるも、戦闘に加わることはなかった。(※3) |
1945春 | 4月7日、戦艦大和沈没。 |
1945秋 | 大和の存在を一般国民が知ったのは戦後。 |
(※1)短期間での建艦競争になれば日本が不利であるのは明白。事実、アメリカは条約失効後に10隻の戦艦を建造。日本は2隻である。そのため、圧倒的な主力艦を欲した。
(※2)大和の存在が開戦時期の決定に少なからぬ影響を与えたという。もっとも、皮肉なことに、太平洋戦争開戦で航空機時代の到来を自ら立証してしまったが。
(※3)空母機動部隊のはるか後方に陣取っていた。機動部隊が敵に一撃を加えた後に、戦艦部隊でとどめを刺す、という旧来の艦隊決戦思想から離れることができなかった。機動部隊とともに行動させるべきであったのだ。