~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「白河天皇」時代です。

「院政」を開始した人物としても知られております。

僧兵対策に源義家を登用したことで、武士の地位が向上しました。

第72代:白河天皇期(1072~1087年)

【白河天皇】…1053~1129年。後三条天皇第1皇子。父の病気により1072年即位。

1087年に譲位し、「院政」を開始。

父・後三条天皇の「延久の荘園整理令」を進めて公領復活を目指す一方、院は最強の荘園寄進先となったため、律令制を自ら否定するものともなった。

延暦寺・興福寺の僧兵は荘園整理などに反抗してたびたび強訴。僧兵からの身辺警護に源義家を登用したことでも知られる。

1072 後三条天皇が息子の白河天皇に譲位。
1073 後三条法皇没
1074 藤原頼通没
1075 白河天皇、法勝寺の造営を始める(六勝寺の初め。)
1081 延暦寺と園城寺が対立。白河天皇の石清水八幡宮行幸の護衛に源義家、義綱兄弟が選ばれる 

※白河天皇は延暦寺に肩入れしていたため園城寺からの襲撃におびえていた。
1083源義家が陸奥守になる 

後三年合戦の始まり(~1087) 

※源義家が清原氏の内紛に介入。

ところが、朝廷は義家を陸奥守から解任。さらに、この戦いは私闘として、戦費を認められなかった。
そのうえ、白河上皇は弟の源義綱を引き立てるなどして源氏の力を弱める陰謀をとった。
1087 弟への継承は父の遺言でもあったが、白河天皇はこれを嫌い、当時8歳の、息子・堀河天皇に譲位。自らは上皇として院政を行う。

以後、鳥羽院、後白河院と100年に及ぶ院政が始まる。

源義家の台頭

石ノ森章太郎「マンガ日本の歴史」13巻より。園城寺の戒壇設立をめぐって争い続ける延暦寺僧兵と園城寺僧兵が激突する様子。僧兵はもはや検非違使が何とかできる規模ではなかった。

白河天皇は延暦寺に加勢していたため、園城寺による襲撃に怯えていた。

義家、義綱が護衛に選ばれる。(それにしても天皇を襲おうとするなんて僧兵とはなんて過激な。)

武士の警護は前例がなく、昼間は束帯で護衛していたが、夜は慣例を破り布衣(武士の格好)に着替えて護衛したという逸話の様子。武士が武士として天皇の警護に当たるということは画期的なことであった。

画は石ノ森章太郎「マンガ日本の歴史」13巻より。

清和源氏3兄弟

源頼義と平直方の娘の間には三兄弟ができた。平安時代最強の3兄弟ではないだろうか。

以下、画は石ノ森章太郎「マンガ日本の歴史」13巻より

長男:源義家

【源義家】…1039~1106年。京都八幡市の石清水八幡宮で元服し八幡太郎と号した。前九年の役(1051~1062年)では父に従い参戦し、その勲功により各地国司を歴任した。

1070年には陸奥で藤原基通を追捕、1081年には園城寺から白河天皇を警護して信任を得るが、実力を警戒されたがゆえに後三年の役(1083年~1087年)では恩賞が与えられなかった。

1091年、河内の所領をめぐって弟とは一戦交える寸前まで。朝廷は義家の力が強くなりすぎることを恐れて義綱を支援した。1098年、朝廷が方針転換となり、院昇殿。

死後、一族は内紛(これがまたとんでもない)、1108年には源義親の乱が勃発し(こいつがまたとんでもない)、これを治めた平家(平正盛)が台頭した。

子孫は義親ー為義ー義朝ー頼朝に加え、足利家、新田家など。木曽義仲は源頼朝の従兄弟にあたる。

次男:源義綱

「義綱の武勇の威、おのずから四海に満つるの致す所か」

中右記(藤原宗忠)

【源義綱】・・・1042~1132年。京都の賀茂神社で元服し、賀茂次郎と号した。

前九年の役には参戦したが、兄とは不仲(?)で後三年の役には参戦せず。

1091年には河内の領土をめぐって兄と戦闘寸前に。朝廷は義綱を支援。

1095年、延暦寺僧を殺したことで延暦寺僧徒が神輿動座を開始。朝廷の命を受け、これを退ける。

1106年、兄の死後、棟梁となった甥の義忠を殺害した黒幕と疑われて一族からの攻撃を受けて失脚。(真犯人は弟の義光だったという説がある。wikipediaより。真相は謎。)

三男:源義光

【源義光】・・・1045~1127年。滋賀の新羅明神で元服し、新羅三郎と称した。

兄のために官位を辞して後三年の役に参戦。子孫は武田氏、佐竹氏などとなる。平賀朝雅は曾孫。

後三年の役

1083年、源義家は陸奥守兼鎮守府将軍として奥州に下る。当時、奥州は清原真衡が治めていたが、一族の争いが激しかった。(真衡vs家衡、清衡)義家は義妹を義理の娘とした真衡を支援

家衡、清衡は降伏したが、真衡は病死。そのため義家の調停により家衡と清衡で土地を分け合うこととした

マンガ日本の歴史13巻。

しかし、1086年、今度は家衡、清衡が対立。義家は清衡を支援。1087年、奥州平定。

朝廷はこれを私闘とみなし、恩賞は与えず、国司も交代させる。

石ノ森章太郎「マンガ日本の歴史」13巻より。

超面倒くさい安倍氏・清原氏系図

「後三年の役」は、

【清原武則息子(武貞)】の息子の【清原真衡】と、

【清原武則息子(武貞)】と【安倍頼時娘】の間にできた【清原家衡】と、

【安倍頼時娘】の連れ子で、前九年の役で安倍氏と共に戦って死んだ藤原経清息子でもある【藤原清衡

の間の争いです。

第1Rは、端折って説明すると、真衡vs家衡・清衡。

義家を味方につけた真衡が勝利するも、真衡は病死

そこで、家衡と清衡が分け合うことになりましたが、この2人の間で生じたのが第2R

義家は清衡の味方につくことで、勝利をアシストします。

清衡は奥州藤原氏の礎を築くことになりましたが、

前九年の役で父親を殺された清衡と義家の関係は正直どうだったのでしょうね…

のち、義家の子孫である頼朝と、清衡の子孫たちが争うことになるのです。

必修!奥州藤原氏、「きもひやす」

「日本史でるとこ攻略法」より、このゴロ合わせは実はめちゃくちゃ使える。

第1世代:清衡

第2世代:基衡

第3世代:秀衡

第4世代:泰衡

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感想(4件)

「天下三不如意」:賀茂川 賽の目 山法師

「山法師」とは延暦寺のことです。

白河天皇が「思い通りにならないもの」として、「賀茂川の氾濫、サイコロの目、延暦寺」と嘆きました。

南都北嶺

たびたび強訴を行い、朝廷を悩ませた興福寺、延暦寺は合わせて「南都北嶺」と呼ばれます。

都・・・奈良県の興福寺のこと。藤原氏の氏寺であったので、摂関家はうかつに手を出せなかった。強訴時には春日神社(藤原氏の氏神)の榊をかかげる

1093年、春日社領に非法を加えた近江守高階為家に対する配流要求の強訴に神木を奉じたのが最初の神木動座

嶺・・・滋賀県の延暦寺のこと。地方に大きな勢力を持つ。強訴時には日吉神社の神輿をかつぐ。山法師とも呼ばれる。

1095年、延暦寺僧を殺害した美濃守源義綱に対する配流要求の強訴で日吉社の神輿を担ぎ出したのが最初の神輿動座

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