~只今、全面改訂中~

☞【足利義満が皇位を狙った説は完全に誤り!】『北朝の天皇』(石原比伊呂、2020年)

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、『北朝の天皇ー室町幕府に翻弄された皇統の実像ー』(石原比伊呂先生、2020年、中公新書)です。

さすがにちょっとマイナーすぎやせんですかいね?
それがどっこい、面白いんですよ。今の皇室にもつながりますしね。

1370年の後光厳天皇と崇光上皇による皇位継承者争いについて書かれた書を探しているうちに本書に出会いました。

結果的には室町幕府創立期から応仁の乱までの幕府と皇室との関係がよくわかりました。

将軍と天皇の「相性」によって、その関係が変化するのであって、足利義満が皇位を狙っていた、というこれまでの説は、単に義満と後円融天皇の「相性」が「最悪」だったからそう見えただけで、現在では完全に否定されているんですね。

はじめに

★天皇家が分裂状態に陥ることは歴史上さほど珍しい訳ではないのですが、「南北朝時代」のインパクトの強さはひとえに「南朝人気」ゆえではないでしょうか…

さほど珍しくない、っていうけど、ほかには壬申の乱(大友皇子vs天武天皇)と保元の乱(後白河天皇vs崇徳上皇)が有名かな…。とはいえ、行政機関が完全に離れて存在したのはやはり珍しいのでは??
そして、南朝の人気が高いのは私のおかげじゃろ!
そして、戦前の南北朝正閏問題もあるんでしょうな。あとは、南朝滅亡の悲劇性と。

序章:戦国時代の天皇即意儀と将軍

源氏長者について

★1519年9月、足利義稙将軍が源氏長者に就任したが、これがちょっと異例。当時、源氏第一の公卿は村上源氏の久我通言(こがみちとき)だった。当時の天皇は後柏原天皇。

足利将軍家と源氏長者

★足利将軍が源氏長者に選ばれることはしばしばあったが、それは即位時の警固とセットでもある。

後柏原天皇の狙い

★応仁の乱でぼろぼろになった天皇家の権威を復活させるため。先代は足利義政に源氏爵の申文を提出していた。そのため、後柏原天皇から足利義稙にアプローチした。これは北朝天皇家の性格そのものでもある。

つまりは、もうこの時期の天皇は自前で即位の儀をできる財産などないんですよ。そこで幕府に頼むしかないの。
わしが天皇として君臨していればそんなことにはならなかった!!北朝の軟弱者めが!!
時代錯誤もたいがいにしてくれよ。だからあんたにはついていけないの。武士の時代なんだよ。

第1章:分裂する皇統ー鎌倉時代

1)両統迭立

承久の乱と皇統の分裂

★院政期は白河法皇や鳥羽法皇が自身の個人的寵愛や派閥争いに血眼な側近の意向に基づき、恣意的な皇位決定を行っていた。

★そこに平家政権が一族の血を引く高倉天皇や安徳天皇を強引に即位させて錯綜が極まる。ただ、院政期の混乱は治承・寿永の内乱を経ての鎌倉幕府成立とともに収束する。(この際は後白河法皇が「治天の君」として君臨し、孫の後鳥羽が天皇に収まった。)

★平家および安徳天皇の都落ちとともに即位した後鳥羽は15年ほど在位し、土御門、順徳と皇子を即位させた。しかし、1221年、承久の乱が勃発する。順徳天皇は皇子の懐成(仲恭天皇)に皇位を譲り、身軽になって挙兵に参加しようとした。しかし、乱の後、後鳥羽、順徳はもちろん、後鳥羽と距離を置いていた土御門も配流されたことで、京都から上皇・天皇が全ていなくなった。そこで幕府は後鳥羽の兄の息子を天皇にする。これが後堀河天皇である。

★その父・後高倉法皇は天皇に在位経験がないまま院政を行い、後堀河に受け継がれた。

ざっくりじゃがわかりやすいのう。

後嵯峨天皇について

★承久の乱の後の朝廷政治は当時、摂関家随一の実力者であった九条道家により主導された。そして後堀河天皇の第一皇子、四条天皇が皇位につくが、四条は1242年、12歳で急逝してしまう。

(いたずらしようとして、廊下で転んで、頭打ったってやつね…)

九条道家は順徳天皇の息子・忠成王を後継者にと考えたが、これに幕府が難色を示し、後鳥羽と距離を置いていた土御門の皇子を後継者とした。これが邦仁王こと後嵯峨天皇である。後嵯峨は幕府と協調関係を築いた。

後嵯峨の後継者

★持明院統、大覚寺統と2つの派閥を生んだのも後嵯峨である。後嵯峨は1246年、早々に皇子の後深草に皇位を譲ったが、晩年は弟の恒仁を寵愛し、1259年に亀山天皇として即位させてしまう。そして、治天の君を指名することなく崩御した。

★両天皇の母である大宮院は「亀山こそ後継者と言っていたっぽい」として幕府の支持をとりつけ、1274年、亀山の皇子、後宇多が即位する。

分裂の深刻化

★しかし、明確な遺書があったわけではないため、幕府も後深草を不憫に思ったのか、後深草の皇子を皇太子とした。そして、1287年、伏見天皇として践祚する。こうして分裂は固定化された。

何度も言われたことだが、後嵯峨が悪い。

対抗する両統

★持明院統は琵琶、大覚寺統は笛を学んだ。また、持明院統は関東申次の西園寺家を通じて、幕府に接近していったと考えられる。

各皇統の性質

★持明院統は幕府との関係性を考え、大覚寺統は自助努力でイニシアチブを取る傾向があった。後醍醐天皇が自身の裁量でものごとをすべて解決しようとしたのは、大覚寺統のカラーである。

2)皇位争いと鎌倉幕府

永仁の徳政令

★「徳政令」とは「借金帳消し」を意味するものではなく、「治世者が実行すべき正しい政治」といった程度の極めて観念的かつ抽象的な概念であった。それが徐々に裁判による社会正義に力点が置かれ、その一環として、御家人にとっての借金帳消し事項が加えられるようになった。1297年3月6日の永仁の徳政令は、本来、御家人だけを対象としたはずが、非御家人たちもこの徳政令に飛びついた。鎌倉幕府の命令は非御家人など広く受容され、活用されるようになっていたのである。

神領興行令

★幕閣は「なんで、知らない人たちまでも自分たちの指示を待っているんだ?」という状況だった。

★寺社に対して行われた「神領興行令」もそれである。(御家人=永仁の徳政令、寺社=神領興行令)

★なかなか実効支配できない寺社所領をちゃんと支配できるようにする、という命令であるが、これによって寺社は無条件で担保などで質流してしまった所領を回復することができた。(当然、金を貸した方は大迷惑。)

★もっとも、これは本来、朝廷の役割であったのに、幕府がそれを行ったのは、元寇の影響が大きい。幕府としては、「なんで御家人でもない連中が自分たちを頼ってくるんだ?」といった感覚であったであろう

悪党と幕府

★幕府の最大の当惑は悪党対策であろう。御家人や荘園領主に仕えるはずの荘官が幕府や主家の意図を超えて成長し、反秩序勢力になったというのが真相。そうした悪党対策を依頼されるようになったのである。具体的には荘園領主が院に悪党対策を依頼し、それを受けて院が幕府に依頼し、幕府が実行する、といった感じである。社会全体が幕府への依存度を強めていったのである。

たしかに元寇の影響は否めないが、それよりも元の支配下に置かれた世界線の方がヤバかったかも知れないぞ。

ひろひとの立太子

★亀山院政の最中に幕府から次の皇太子はひろひと、と提案があった。これは断れないことを意味する。後深草と亀山の争いに幕府が首を突っ込んだことで幕府が皇位に関与することが常態化したのである。

伏見天皇の即位

★大覚寺統にとって衝撃だったのは、ひろひと(=伏見天皇)の皇太子が伏見天皇皇子の胤仁だったことである。そこで争いは泥沼化。そして、後伏見天皇が即位した際に、皇太子になったのは、持明院統ではなく大覚寺統の、後宇多の皇子、邦治であった。これは京極為兼という和歌を通じて伏見天皇に取り入り政治家としても辣腕を振るった人物が、幕府の逆鱗に触れて佐渡に流されたことと関係があると考えられる。

後二条天皇の即位

★こうして後二条天皇が即位した頃には亀山、後宇多(大覚寺統)、後深草、伏見、後伏見(持明院統)と5人も上皇・法皇がいる事態となっていた。幕府は彼らの遺産争いにも裁定を委ねられることとなっていた。

3)文保の和談と後醍醐天皇

東使の入京

★1301年に即位した大覚寺統の後二条天皇は1308年に若くして崩御。それにより持明院統から花園天皇が即位する。大覚寺統は幕府への工作を過熱させ、1317年、東使として摂津ちかあきが入京することになった。このとき、摂津を通じて伝えられた内容が「文保の和談」である。内容はシンプルに言えば、「聖断たるべし」=「天皇家で決めてください」である。

文保の和談の経過

★鎌倉幕府による鶴の一声によって決定したわけではなく、当初、持明院統は花園天皇退位を断った。しかし、文保元年9月に伏見上皇が崩御したことで大覚寺統が攻勢を極め、文保2年(1318年)2月に後醍醐天皇への譲位を余儀なくされた。

文保の和談の本質

★持明院統は退位と引き換えに後伏見天皇皇子の量仁(かずひと)を皇太子に据えることをとりつけた。一方、大覚寺統の後宇多上皇の狙いは、後二条天皇の皇子、邦良親王を天皇にすること。後醍醐天皇は年齢的に適任だったため天皇になれたが、文保の和談の真の争点は皇太子を量仁にするか、邦良にするかにあった。最終的に、幕府の提案もあり、邦良→量仁となる。しかし、後醍醐は自分の息子への譲位を考え、日に日に力をつけていた。

後醍醐の立場

★後醍醐にとってのライバルは持明院統と、嫡流である兄の後二条天皇の系統。

私のまじない、でなんとかしたるわいっ!

倒幕への道

★最初に落ちた障壁は父の後宇多上皇。1324年6月に崩御。後醍醐は不穏な動きを見せ、正中の変につながる。邦良は不安を覚え、幕府とのコネクションを強める。1326年3月、その邦良が崩御。次の皇太子は、持明院統の量仁、のちの光厳天皇に決定する。もっとも後醍醐は自分の息子・尊良(たかよし)にと思っていたため後醍醐天皇は焦燥する。よって、後醍醐にとっての障壁は鎌倉幕府となった。

鎌倉幕府の悲劇

気の毒なのは鎌倉幕府で、朝廷に悪党対策を押し付けられたため御家人たちは大きな負担を担っていた。その御家人を動員するためには専制的にならざるを得なかった。さらに皇位決定に対してのスタンスは「朝廷のことは朝廷で決めてほしい」というスタンスであったが、時代がそれを許さなく、巻き込まれることとなった。後醍醐天皇は利用できるものならなんでも利用するというスタンスであったため、悪党を積極的に取り立て、商工行者の勢いも掌握し、新興勢力を登用した

なんでもかんでも幕府に頼むなって!のが、本音。